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2006年7月30日 (日)

久しぶりの帰郷

  11年前のゴールデンウィークに二年ぶりぐらいで帰郷した。

その年は天候が良かった。10回ほど乗り継いで夜9時過ぎに実家に着いた。東京の家を出たのは朝5時半である。夕方5時頃の乗り継ぎ待ち合わせ時間に実家に電話を入れて、夕食は食べてゆく予定と告げたが、結局、7時以降には食べる時間も場所もなかった。二回続けて駅売店で買う食べ物も嫌だし、と逡巡している内に、実家の最寄り駅に着いた。遠くもないし、薄暗い夜道を歩いて帰ろうかな、と駅から出ると、何となく昔の匂いがした気がした。この駅から近くの市の高校に通った。東京に出る時も、この駅から出た。一瞬の間に、そんなことが思い出された。

駅で降りた人はほんの数人だった。父が車で迎えに来ていた。つい先日会ったように、さり気ない挨拶を交わして、数分で家に着いた。父が迎えに来たのは、初めての事であった。

夕食を食べていないので、即席ラーメンでも食べようと思って台所を覗くと、食卓には簡単ながら我々の為に夕食が準備してあった。聞くと、多分食べるところは無いだろうから、準備しておいたとのこと。有り難く頂いた。夕食後少し作物や村の事などを聞いてから、静かな田舎の夜で忽ち眠ってしまった。

翌日は、野鳥の鳴き声を聞いて目が覚めた。田舎の早い朝食。何と美味しいのだろうと思って、東京ではしたことが無いご飯のお代わりをした。毎日こんな美味しい物を食べて居るのだろうけれども、彼らには何の変哲もない、普通の食べ物に違いない。

朝食後直ぐに、家に有った釣り道具を持って、車で30分ほどの所に有る港に釣りに出掛けた。広い港にパラパラと釣り人が居た。地元らしい人もいるし、帰郷したらしい人もいる。自分はどちらに見られているのかなあと思った。

好天で暖かく、釣り日和。引きも活発でカレイだけで10匹以上釣れた。楽しかった。予想より沢山釣れたので、昼食に間に合うように、11時頃港を後にした。

昼食のおかずに釣ってきたカレイを唐揚げにして一品追加した。父は美味しいを連発して食べた。朝食の時は余り食べなくて、見かけは余り変わらないが、年が行ってきたのだなあ、と思っていた。朝食後の雑談で、最近お腹の調子も余り良くないし、と言っていたから、少し心配していたが、昼に唐揚げを喜んで食べて貰って、少し心配を忘れた。

午後からは、子供の時分に毎日のように遊びに行っていた裏山に行った。当時とは違って獣道の様な子供達の歩いた細い路は、草で覆われて、主道路が辛うじて人が歩ける程度に成っていた。昔子供の頃歩いた道を全部歩きたい気がしていたが、年々細い路は歩けなくなり、思い出が草や藪に埋もれてゆく気がする。散歩から帰って、少し昼寝をした。

夕食にはカレイの刺身と、その他もろもろの煮付け、吸い物を作って食べた。この時も父は少しの酒を飲んでカレイの刺身や煮付けに美味しいを連発した。お酒の量も以前に比べたら半分以下に成っていた。二人で酒を飲んで、何回も聞いた昔の話しを聞いた。それから、それから、と聞くと少し状況が加わって、話しは飽きることがない。こちらは「フーン」「エー」「凄いね」「それで」「それから」 かなり酔っても来たし、我々はそんなに遅くない時間に部屋に引っ込んで寝た。

そんな時間を数日過ごして、墓参りもして、我々は帰京した。それから一ヶ月もしないうちに、父が入院した。週末を利用して、今度は新幹線で見舞いに行った。割と元気そうであったが、少し痩せていた。病室から出て、その階のロビーで暫く雑談した。退屈で困ること、作物の事が気に掛かることなどを話した。

また一ヶ月ほどして父の病状が悪化した。見舞いに行った。母は、もう年が行ってしまったが、昔と同じように、ちょっと笑みを湛えたような顔で出迎えてくれた。父はベッドに横たわり、動くことはなく、良く来てくれた、と言う表情でこちらを見るばかりで、殆ど口は利かなかった。その時、チラッと母の顔を盗み見ると、もう覚悟は出来ているように思えた。

週末ごとに見舞いに来たかったのだが、忙しくもあったし、逆に力を落とさせ心配させるのを憚って来なかった。暫く傍にいたが、目をつむって寝たような感じがしたので、病院を後にした。それから一ヶ月もしないうちに訃報が届いた。その年は都合5回帰郷した。ゴールデンウィークに帰郷して本当に良かった。

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2006年7月23日 (日)

トウモロコシ

隣人からトウモロコシを貰った。彼は一人暮らしで、70代後半の老人である。彼は別の隣人から貰った、と言っていた。その人は60代の夫妻で二人暮らしである。

垣根越しに声を掛けられた。シャワーの後でバスタオルを首に巻いたまま庭に出ると、彼が笑顔で立っていた。4本ビニール袋に入っていた。茹でたてで直ぐにでも食べられる。手渡された時から良い香がしていたが、ビニール袋から出して、皿にのせると益々良い香りがした。未だ湯気も上がっていた。

朝早く起きて、庭仕事をしていたので、ちょっと空腹を感じていたところだった。午前のお八つとして食べた。とても美味しかった。自分も好きだが家内は特に好んで食べている。日本各地にいろいろな呼び方が有るようだから、昔から重要な作物で有り、生食用のトウモロコシは好きな人が多かったのだろう。食べながら昔のことを思い出した。

子供の頃、秋には自分の家の軒下にも、あちらこちらの軒下にも何色かのトウモロコシが、多分数本ずつ下がっていた。見慣れた景色ではあったが、それを種として使うために乾燥させていたと言う意識は無かった。一粒の種から一本の芽が出て、茎には、トウモロコシが二本付くのだから、粒だけのことなら、7800倍となる。自然の生産力は大きい物だ。

小学生の頃、家に帰ると夏は、仏壇の前のテーブルによく茹でたトウモロコシが供えてあった。一本取って、静かでガランとした家の縁側で一人で食べてから、遊びに出掛けたものだ。当時は今より大分甘みが少なかった。実も赤色系のもと、灰色系のものが有った気がする。今の様な黄色系のものは堅く大きい家畜用だったように、ぼんやり覚えている。長じて久方ぶりで食べた時に、あまりの甘さに、ビックリした記憶が有る。昔っぽいトウモロコシはもう無いんだろうなあ。

東南アジアや、南西アジアで食べたトウモロコシは、自分が子供の頃に食べたトウモロコシの懐かしい味だった気がするが、甘さは今普段食べているものに比べると、数段落ちるものだ。灰色系は食感に粘りが有って、甘みは落ちるが、妙に食べ物という感じがした。日本では子供の時以来、見たことがない。

30代後半の甥が小学生高学年の頃、田舎で一緒に釣りに出掛けた。雲行きが少し怪しくなって、少し早めに車で帰る途中、道ばたで茹でトウモロコシを買って食べた事が有る。彼は喜んで「美味しい」と言いながら食べた。相当お腹が減って居たのだろう、店頭で一本ずつ食べた後に、もう一本食べるか?と聞いたら喜んで頷くので、もう一本買って、車に乗り込み、こちらは運転し、彼は一緒に買った飲み物を飲みながらトウモロコシを食べた。彼も喜んでいたが、こちらの方が、喜んで貰えて、彼より余程嬉しかった気がする。隣人から貰った、トウモロコシをたべて、そんな昔の事がつらつら思い出された。

今度外房に行った時には、隣人に美味しかったトウモロコシのお礼を言って、トウモロコシが軒下に乾されていた頃の景色やら生活について思い出したことを、話してみようと思う。

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2006年7月19日 (水)

岬の人

 去年のゴールデンウィークは外房に行っていた。

その一日気が向いて、ずっと前から行ってみようと思っていた小さな岬に出掛けた。快晴で暑い日であった。その岬を昔或る青年が、別荘地にしようと思って、足繁く通ったと言う話しを読んだことがある。結局は断念して、そのお陰で、今も美しい自然地形のまま、その岬は太平洋に臨んで、南房総国定公園の一部を成している。

その岬の付け根には小さな突き出しがありそれに二分されている小さな港がある。右側は漁港で左側はダイビングの基地のようになっている。港は周囲が小高い丘陵に囲まれて、ひっそりしている。誰かのために隠してあるような雰囲気が漂っている。景色が良く静かで自分は直ぐ好きになった。港の手前に有る駐車場に車を止めて、岸壁から海を覗きながら、釣り人の脇を抜けて港を一巡した。波の音が静かに聞こえ、空気が良く、水が綺麗で、益々好きになった。

そして今度は、岬巡りに出た。小さな旅館の脇を通り、狭く暗い凸凹道のトンネルを抜けると、今度は本当のその岬に入る。暫く息を切らして登ってゆくと見晴らしが利く分かれ道に出る。そこに「南房総国定公園」の石造りの案内板がある。そこでいつものように、デジカメで写真を撮っていると、初老の夫婦が通りかかった。服装は我々と同じく、地味な普段着だが、持ち物がハイキングコースに似合わない大きなカバンに鍋らしい物が見え、又別の半透明の大きな袋には衣類が入っているようだ。我々に笑顔を向けて、近づいて来て、その荷物を狭い道の横に無造作に置いた。

「撮りましょうか」普段の自分なら、「イヤー・・・」とか言って辞退することが多い。どうしても二人が写って居る写真が欲しければ、PCで切り貼りすれば済むことだし。しかしその時は素直に応じて、写真を撮って貰った。その笑顔に何か引き込まれてしまった。「ココをゆっくり押してください」自分たちの写真を撮って貰ってから、何か勢いで初老の夫婦の写真も撮った。

炎天下で数分話しをした。直ぐ近くに別荘が有る。近所に家は全くないし、この通りの所だから、夜は恐ろしいほど静かだ。冬の夜は満天の星が掴めるような感じだ。嵐の時は、風が舞って、木々が揺れ、不安になるほど騒々しい。そんな夜は波の音が轟々と聞こえる。でも公園の中で、景色が素晴らしく、不便だけど気に入っている。

夫妻は別荘で不要な物を、持ち帰る為に運んでいたようであった。未だ帰る時間にしても、日にしても早かったので、買い物ついでに車まで運んでいたのだろう。

先週、久しぶりに勝浦の朝市を見物してから、その岬散策に出掛けた。その日は、海から霧が盛んに陸側に流れてきて、視界が利かなかった。岬に入ってゆくと遠くが霞んで、高台からは、海面がぼんやり見える程度、数百メートル先は、全く白いばかり。斜面には百合が咲いていた。

急な坂道を登り切ると、一年少しばかり前に写真を撮って貰った分かれ道に出た。そこを南に下って行くと、赤い屋根の夫妻の家が見えてきた。夫妻は衣類やら布団やらを干している最中だった。垣根越しに声を掛けて門に立つと、こちらにとっては写真で見慣れた二人が居た。一年少し持っていた写真を一枚上げて、一言、二言話すと、夫妻もこちらを思い出してくれたようだ。また少しだけ話しをして、ハイキングコースに戻った。

自分はまた、将来あの岬に散策に行くだろう。縁があれば、その時また会えて、またお茶に誘ってくれれば今度はご馳走になるだろう。縁がなくてもう二度と会う事は無くとも、時々あの夫妻の事は思い出すに違いない。

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2006年7月13日 (木)

お父さんのおかず

 昔一品多い、今一品少ない。

昔、自分が未だ子供の頃、家族が夕食を始める前に、父の晩酌が始まった。そこには肴があった。詳細は覚えていないが、クジラの刺身だったり、イカの刺身だったりした。特に食べたかったわけではないが、側にいると、一切れぐらい分けて貰って食べた。クジラは、未だ少し芯は氷っていて、とても冷たかった。時に歯にしみる時も有った。長じて自分のおかずに加えられるように成ったときは好物の1つになっていた。冷たいクジラの刺身を醤油にたっぷり浸けて、温かいご飯。

イカは、柔らかい身を食べさせて貰った。美味しい物だったが、たまに水溶きの練り山葵がきついこともあった。美味しいと言ってもそれ以上食べたいとせがんだ記憶はない。又、大人になったら、食べられるんだ、と思った記憶もない。父の皿の上にはエンペラも、足も有った。

小学校の高学年か中学に入りたての頃、従姉妹が家に遊びに来て、たまたま食べ物の話しに成ったときに、マグロの刺身が好きだ、と言ったときにはちょっと驚いた。ああいう物は、子供が好きだとか嫌いだとか言う物ではなく、大人になってから食べるものだと思い込んでいたからかも知れない。味を連想した記憶は全くないから、その時までに、マグロを食べた事は無かったかも知れない。

当時マグロと言えば、殆ど赤身だったと思う。今は大部トロが人気で出回って居る様だ。自分はマグロの赤身は好きだけれども、中トロ、大トロを好んで食べることはない。テレビで「脂がのって・・・このとろけるような・・・」と言って味を誉めているが、そんなものかしら、と思ってしまう。居酒屋で刺身の盛り合わせの中にトロが有れば、自分の分として食べるだけで、特にどうと言うこともない。

最近のお父さんは、10代の子供より一品おかずが少ない。お父さんは太り気味で、高脂血症。コレステロールのコントロールが必要で、焼き肉とかハンバーグなどのおかずは、お父さんの皿が無い。高タンパク低脂肪の健康食品ばかりだ。蔬菜を食べては、心の中で、自分はウサギやヒツジではないと思い、ニンジンやその他の根菜、芋類を食べては、自分は馬や牛ではない、もうちょっと歯ごたえのある物が食べたいと自嘲する。みんなお父さんの健康第一。「お父さん、からだに気をつけて・・・」「お父さん、無理をしないで・・・」野菜や豆や根菜ばっかり。

昼は、これまた健康弁当を食べて、自分の事を思ってくれて居れば、文句も言えないし。彩りなんかは、余り興味が無くて、もっと食べられるものにして欲しいと思いつつも、「良いわね、愛妻弁当で」と冷やかされながら、食べている。自分としては、飾り物の様な弁当よりも、食べられる弁当が欲しいと思っている。愛妻弁当とはこちら側から見た言葉でだから文句など言わない、と言う意味だ。

それでたまに反動で、悪いなあと思いつつも、同僚と軽く飲むときは、罪悪感に駆られながらも、脂っこい物を食べている、帰宅して問いに答えれば、「サラダとか、酢の物とか・・・」と答えてこれも忸怩たる物が有る。

恨みはないが、自分たちの世代は、子供の時はおかずが一品少なくて、お父さんに成ったら、おかずが一品少ない。

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2006年7月 9日 (日)

都市ガス・村ガス

 自分が生まれ育った地域で普通であることが、後年必ずしも普通では無く、とても恵まれて居る事だと分かったり、逆だったりする事が有る。

都会地では、都市ガスの供給地域が広範囲にあり、その外縁がLPガスの供給地になっている。イメージ的には都市ガス供給地は、都市型地域で、LPガス供給地は農村型地域と分けることもそんなに変でもない気がする。

昭和30年代までは、都会では炊事の燃料に炭や練炭を使い、農村地域では薪を使っていた。昭和40年代に成り、ガスの利用が盛んになり、薪炭利用が急速に減少した。炭を使っていた地域には、都市ガスが引かれ、薪を使っていた住宅の非密集地域機では、LPガスが使われるようになった。

友達に秋田県の男鹿半島出身の人が有る。自分は彼の実家に相当昔に遊びに行った事がある。最寄りの駅から、彼の家までは、余り連絡の良くないバスが有るばかりで、駅に着いてから、10キロ程の道のりを移動するのに、待ち時間が長く二時間ほど掛かった。不便なことは知らされていたので驚きはしなかったが、荷物を持って歩くには遠すぎるし、かと言って、普通に考えれば二時間も掛かる距離でもない。そこに滞在している時は、家の車で男鹿半島を案内して貰って、地域の料理を食べて楽しく過ごした。

家の近所を散歩していると、何処の家にも家の前に、小さなメーターが付いた棒が地面に刺さって居ることに気づいた。何の推定も効いて居なかったので、さり気なく聞いたら、ガスメーターだと言う。驚いてしまった。何でガスメーターがこんなところに有るのか?

彼はちょっと戯けて「村ガスのメーター」と言った。

メーターは家の壁に付いているもので、こんなところなら、LPガスのボンベがあり、そこにメーターが付いているはずではないか。彼に因れば、ガスの本管が道路に埋まっており、そこから各屋敷に引き込まれているのだが、検針人が便利なように本管から分岐のところに各家のメーターが設置されているとの事。

彼は油田が全国には無く、秋田や新潟にしか無いことは自分と同じく小学校の頃から知っていたが、ガスがいつから引かれたかは、記憶がハッキリしなかったけれども、ガスは初めから「村ガス」だったとの事。高校に通うために秋田市に出た時、ガスについては何の感慨もなかったが、ある時、ガス切れが起きて、町ではLPガスを使っている事が分かり、とっても驚いたとの事で有った。村では地下配管でガスを使い、町では各家配達で、LPガスを使っている。

薪が不足してきたり、炭が不足してきたりして、追加しなければ成らない事態が実家で発生する事は有ったが、ガスが来ない事については一度も考えたことが無いと言っていた。それで彼は、驚いた自分の為に、車で油田に案内してくれた。施設はさほど遠くないところに何カ所かに分散して有った。今でも産油している。ガスはそこで採れた天然ガスを「村ガス」として供給している。

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2006年7月 5日 (水)

金メダルの妖精

 今年2月のトリノオリンピックで金メダルを獲得した色白の美人を見守っていた妖精は、4年前に金メダルの妖精に変わった。

楽しいと思ってしている練習も時には辛く挫けそうになるときがある、そんな時は彼女の心の中に入っていって、励ましてやり、新たなる練習に向かう勇気を与えた。転びそうになれば押さえてやり、スピンするときは回転軸をしっかり持ってやった。イナバウアーの時は耳元で「はい笑顔で!」と囁いた。

そして彼女が来るのを待って居た金メダルの演技をする舞台と時間の準備が出来た時、その妖精は、彼女の肩をポンと叩いて、送り出した。そしてその妖精は、彼女の演技をニコニコしながら見ていただけ。

彼女の演技は、森に住むスケートの好きな妖精が自分の楽しみのために、自分のいつもの小さな氷の湖で、ノビノビと楽しんで、持てる全ての技を出して、それで満足して終了した、そんな演技であった。

金メダルは彼女に与えられた。彼女は最後に自分の力でその栄誉に辿り着いた。フリーの演技で高得点を取ったことを知った時と、1位となりガッツポーズをした時の彼女の拳の強い握りは、その透き通った明るい笑顔とは裏腹に爪が手のひらに食い込むほどに強かった。

この妖精はこれからこの人を守る妖精となって一生涯彼女に付き添い陰となり日向となり、彼女が進む道を見守るのだろう。

昨日の夕方バス停に向かう時、母に手を引かれて歩いている小さな子がいた。その子は一人だけで生きて行くのには大きな困難が待っているようだったが、彼に付いている妖精は彼を優しく見守っている様に見えた。

妖精は誰にも付いている。その声を全ての人が聞けるわけではないが。

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2006年7月 3日 (月)

ツバメの巣

 自分は電車で数時間のところに土地を借りて小さな農園をしている。そこにこれまた小さなログハウスを建てて居るので、週末に行ったときには泊まっている。

今まで軒下には、何回かとっくり蜂が巣を作っていたが、これは通常害も無いので黙ってそのままにしておいて、秋に毀して掃除をしていた。去年はとっくり蜂こそ巣を作らなかったが、ツバメが巣を組んだ。

6月の初めに久しぶりで行くと、軒下にツバメの巣が有り、ピーピー雛が鳴いている。4~5羽居た。もう仕方が無いので、そのままにしておいた。出入りする度に上から落ちてくる糞に気を付けねば成らなかった。滞在中は匂いもするし、蟻もたかるので何回かは床に落ちた糞の掃除をしていた。少しは気を遣って、なるべく玄関の辺りには居ないようにして、ウッドデッキに居る時も、玄関から遠いところに居るようにしていた。

何回か行って観察していると巣から覗く雛の感じが徐々に大人びて来て、成長して居るのが分かった。結局、二回雛を育てたようだった。一日目の時には二羽しか、エサを運ばなかったが、そのうち何羽かでエサを運んでいるようだったから、一回目の子供達が、二回目の子供達の、すなわち自分たちの弟妹の世話を手伝ったのだろう。その年の7月初めに行ったときには、もう巣立ちして、巣は空に成った。近くには頻繁にツバメの飛び交う姿が見られた。近くの電線にも良くとまっていた。

そのうち関心が薄れて、ツバメの事は忘れていたが、今年、5月の初旬に行ったときに、玄関の軒下に盛んにツバメが飛んで来た。又巣を作られては嫌なので、どうしようかと考えた末に、自分では良い考えだと思い、飛ぶのに障害となる細い竹を玄関の軒下に何本か取り付けた。去年造った場所にも被さるように何本か竹を組んで取り付けた。その作業が終わったときには、ツバメは飛んで来ず、上手く行ったと思ったが、6月の初旬に久しぶりで行ってみると、なんと去年と全く同じところに巣があり、もう雛が孵っていた。ツバメ返しと言う言葉があるように、あんな障害は、ツバメにとっては何でもなかった様だ。

未だ鳴き声は殆どしなかったが、親鳥が餌を運んでいるので、雛が居るのが分かった。良く床を見ると、卵の殻が少し落ちていた。仕方が無いから、今年も去年と同じように遠慮して暮らした。先週の週末行ったら、もう雛は巣立ちをしていて、巣は蛻の殻であった。巣の下の床には糞が堆く積まれていた。柄にも無く、駄洒落句が浮かんだ「夏糞やつわものどもが巣立ち後」。近くにツバメの姿も見えなかった。電線にも止まっていなかった。

ツバメが巣を作るときに、自分が邪魔した事でツバメが遠慮して早く切り上げたのかなあ、と一瞬思い、ちょっと悪い気もしたし、寂しい気もしたが、実際は単なる摂理なのだろう。夕方帰り際に、巣を取り片付けて、掃除をした。

来年は?今から少し思い悩んでいる。

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