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2006年8月31日 (木)

茄子と烏賊。

 自分は茄子が好きだ。茄子は良い。価格も安い。焼いて皮を剥いて生姜醤油。薄い輪切りにして、醤油で揉んでにわか漬け。みそ汁、鍋物の具。明礬を入れた一夜漬け。肉入り辛みそ炒め、揚げ煮、テンプラ・・・。モロッコ風、イタリア風、インドネシア風、勿論これらは冗談。飯も酒も進む。
 烏賊も好きだ、烏賊は上記のような料理に加え、刺身、なめろう、塩辛、ワタのルイベ、スルメ、サキイカ等が加わる。烏賊は海の茄子、茄子は山の烏賊。こんな多岐の料理で食べられる食材は有り難い。もっともトンブリのように茹でて売っており、酢醤油で食べるしか無い食材も好きだけれども。山芋、納豆、大根おろしと混ぜても食えるが、自分の好みでは無い、シンプルで行きたい。山のキャビアと言われるトンブリが悲しむ。キャビアは海のトンブリと言われたら、有れば顔で笑っていても、自尊心が傷つくだろうなあ。

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2006年8月30日 (水)

ヒマワリ迷路

 職場で幾つかの少し違う言葉の使い方が、飛び交っている。最近は心の中でも鋭くは突っ込まなくなり、フラストレーションの度合いも少し下がった。
 ヒマワリ迷路に入った時のように、面倒だけれども、少し楽しく、やり過ごそうと思っている。
 「逆に」・・・に続くものが、方向も順序も内容も特に逆ではないような気がして、逆は何ぞやと考えている内に、又、逆に、と言われ最初の内容さえ分からなくなる。その人の思考の中では、「逆」まで行っているのだろうけれど、良く分からんなあと思っている内に、「いわゆる」・・・と言う言葉が入ってきて、共通理解のある字句が来るかなあと当方は考えるが、大抵そんなことは無くて、単なる音調で次の項目に移って行ってしまう。内容について行けない。質問すると、そこだけお答え願えれば良いのだが、来歴から諄々と説いてくれる。拝聴している内に、当方は質問を忘れる。それらに混じって重複表現も多い、発言者は成語も使いたいし、臨場感も出したいだろうけれども。かくして、会議は長引く。

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2006年8月29日 (火)

ゴミ会議

 職場で出るゴミの処理について会議が有った。ゴミ会議だけ有って、ゴミの様な案が分別されないで、掃いて捨てるほど、山のように出た。どの意見も他の人に取っては、ゴミの案に見えるのだろう。各案の検討は特にせず、羅列して収集車ならぬ、上部組織に報告された。自分もそのゴミの山に一個、勢いでゴミを捨てた。

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2006年8月28日 (月)

ジュゲム・・・

 職場で寿限無が流行っている。せめて小学生に対抗できるように、と言うのが最初の動機だった?会議中、配付資料を読んでいる振りをして、ネットから印刷した寿限無を暗記している者が居た。職場の仲間内でやや不利な状況に成ったら、ジュゲム、ジュゲム・・・と唱えれば脱出できそうだ。
 本質に関わりなく、手続きが長ければ途中で、まあ良いか、みたいになることが多い、事態は大抵全然改善していないけれども。
 ついでに小学校で習う春の七草、発展して秋の七草も覚えている。そのうち職場の七草、夏の七草、冬の七草なども、選定されそうな勢いだ。

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2006年8月27日 (日)

農家の娘さん、嫁さん

小さな矛盾シリーズ(1)

 岳父と10数年前に一緒に酒を飲んでいて、ちょっと面白いなあ、と思ったことが有る。話しの内容は、ステレオタイプでとても分かりやすい。そう言う行動型は自分も含めて多分世の中に蔓延しているのだろうと思う。

農家のおっさん連中は、自分の娘は農家の次、三男坊で大学出の都会に住むサラリーマンに嫁がせたい。

相手は出来れば同じ町出身で、出来れば安定した会社に勤めていて、出来れば直ぐ孫が出来て、出来れば頻繁に、せめて盆正月には遊びに来て、遊びに来たら農作業も手伝って貰いたい・・・欲深い。

農家の娘さんを貰えば、良いことが多い。季節の野菜が沢山送られてくる、果物が季節中何回も送られてくる、祭りや各種行事の菓子や餅がドッサリ送られてくる、米も年に数回送られてくる。米を除けば、新鮮な内に食べきれる量では無いので、近隣にお裾分けする。お裾分け出来ない物が、跡継ぎの長男から1,2年に一回送られてくる、老夫婦、暇だから長期間滞在する・・・農家の娘さんを貰った人の隣に住めばよい。

農家のおっさん連中は、息子には農業高校を出て、直ぐ跡を継いで貰いたい、そして早く結婚して貰いたい。出来れば嫁さんは近隣の町から、美人で気だてが良くて、働き者で、料理が上手くて、農作業も積極的にやって、直ぐ孫が生まれて・・・欲深い。

農業は、自然相手で人間関係などのストレスがない、良い農作物が出来たときの収穫の喜びは大きい、人々に生きる基本である食料を供給する立派な仕事だ・・・自分の娘には勧めない。

願望は勝手なものだから、それはそれで良いが、そんなこんなで、未だに農家は嫁さん不足。

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2006年8月21日 (月)

松陵健児

友達に昔の歌を良く覚えている人がいる。凄いものだと思う。アニメの歌、流行歌、出身校の校歌も悉く覚えていた。彼はその他は自分なりに考えれば、自分とそんなに違っているとも思えない。彼にしてみれば慣れ親しんだ歌の歌詞を全く覚えていない自分みたいな人が居るのは、逆に不思議なことかも知れない。

自分が卒業した高校の校歌か応援歌に(どちらかハッキリしない所が、彼なりに考えれば、全く以て怪しい)松陵健児と言う詞が有った。この健児という詞には、何か引っ掛かりがあり、未だにその部分の旋律も覚えている。他はもう殆ど覚えていない。当時もうこの詞は、些か不穏当で有ったと思う。もう男女共学だったのだから、少し女生徒にも配慮して歌詞を少し変えれば良かったような気がする。戦前は旧制中学で男子だけであったから、中身はともかく辞書風に言えば、血気盛んな男子と言うぐらいの意味で使っていたのだろうから良いけれども。

自分は、健児に今も当時も、女性を含むには無理が有る様に思うが、もしかしたら今は男女を含む事として居るのかも知れない。

当時は未だ看護師、保育士などと言う言葉は無かったし、言い換えようという意識も余りなかったと思う。自分はそれ程敏感では無かったが、そう言う或る意味怠慢な事に、若しくは配慮の無さに敏感な人も居たと思う。数少ない女生徒が自分たちの教室の廊下を歩いて居るとき、『健児、何処へ行く』と声を掛けた同級生が居た。自分はその時、女生徒が早足で通過するのを見て、みんなと一緒にからかいの気持ちが有ったとは思うが、声を掛けた人の様な意識は無かった。彼は風変わりな人であったけれども、平等とか、配慮とかには敏感だったと思う。その反転で、ああ言う事を言ったのだろう。まあ当時の言葉で言えば彼は進んでいた。

自分は自校の歌として、その歌を歌っていたと思うが、女生徒は、松陵健児の所に来たら、自分が通っている学校とは別の男子校の歌を歌っている気がしたかも知れない。

ちょっと古い気がするが、何処かの大学で、~女子大と言う名称を変えないで、男子学生を募集すると言うニュースを見たが、これも何か変だと思う。高邁な理由は沢山付けられるけれども、男子大といのは無くて、女子大というのがあるのだから、男子学生を受け入れるなら、せめて女子大と言う名前は変えた方が、自分は良いと思う。ちなみに自分が受験生だったら、四年後に貰う卒業証書に~女子大と書いてある大学を受験する勇気は湧かない。就職のための履歴書に~女子大卒業・・・松陵健児を歌った女生徒もこんな感じだったかなあ。

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2006年8月18日 (金)

薪ストーブ

自分が卒業した高校は、XX山(念のため、バツバツヤマでは無く、ちゃんとした名前が有る)と言う台地の南端に建っていた。海に比較的近かったので、黒松が敷地の周りや校庭のあちらこちらに有った。 桜も数多く有り、八重桜は初夏の頃まで咲いていた。太平洋戦争前からの校舎は木造二階建てだった。戦後に増築された建物は殆どが平屋だった。今考えれば、環境が良く景色も良い場所だったと思う。まあ自分ぐらいの年で田舎なら普通のことだろうとは思うが。ついでに言えば自分が通った小学校も中学校も周りからは少し小高い場所に有り、木造二階建てだった。

小中高を通して冬の暖房は薪ストーブだった。小学校は薪を入れておく大きな部屋があったようにボンヤリ記憶しているが、中学校の時の記憶は殆ど欠落している。北西風の吹き曝しに建って居たて寒かっただろうから、ストーブに当たって暖を取ったのだろうけれど、全然覚えていない。薪小屋が何処に有ったかも覚えていない。そのうち何かの出来事を思い出せば、それに釣られて思い出すかも知れないが、当分無理そうだ。

高校が有った所も風が強い所であった。校舎の古い板張りの床には飛んできた砂が隙間に沢山入り込んでいた。掃除をしても取りきれるものではなかった。新校舎は少しマシだった。冬になれば雪になり砂の量は減ったと思うが、廊下が砂でザリザリするのは変わらなかった。

高校の時も、ストーブに当たって、とい記憶は余りない。風が強い分だけ外は寒く感じたので、あまり風のない室内に居ればそんなに寒く感じなかったのかも知れない。

冬になると、ある日から各部屋に薪ストーブが取り付けられた。円筒形でドラム缶の半分ぐらいの高さだったと思う。ストーブを焚く様になると、薪当番が名簿順に回ってきた。2、3人で朝薪小屋に薪を貰いに行った。1時間当たり4本だったと思う。つまり一日24本、太い細いが有るので、それは適当に案配していたのだろう。特に寒いときは量が増えた気がする。校内放送か何かあって、朝から多いときもあったろうし、昼に追加が有り受け取りに行った気もする。

朝はどういう風に火を付けたか記憶がない。大きな金属のバケツのような物で、用務員の人が、火種を配って歩いていたのかも知れない。帰りは薪が無くなって、例え放って於いても自然に消えただろうけれども、誰かが巡回して火の元の安全を確認していた事と思う。

薪ストーブは当時あまりにも日常的なことなので、印象が浅く、時代が変わった今としては、どう言う風に成っていたのか考えても分からない。やり方が何度か変遷したのかも知れない。3年で20数クラス有ったのだから、どう言うやり方をしても、用務員の方は、大変なご苦労な事だったと思う。

そんなことは当時、露思わず、幾つか悪さをした。他の組の振りをして2回貰いに行ったりしたことも有った。それを防ぐために何かカードのような物が有ったような気もする。それで用務員の方が、何か名簿のような物でチェックしていたのだろう。又、我々は1~2回薪小屋に盗みに行った。どのように侵入したかは、全く覚えていないが、正規の出入り口から行くわけはないので、壁板の剥がれている所を広げて入ったのだろう。薪は整然と積み上げられていた。ちょっと後ろめたかった。直接怒られたことは無いが、多分察知した出征経験のある先生が、全校集会で、軍隊時代の話しをした後、誰も盗みにゆく事は無かった。大変申し訳無く、又残念ながら内容は全く覚えていない。

薪は節約してストーブにくべた。節約した薪は、大きな教壇の下に隠しておいた。わざと片側にだけ積み上げて、教壇を斜めにしたことも有る。実習の女性教師は、ビックリしてそのまま教員室に逃げ帰ったこともあった。怒って説教をする先生も有った。寛大な先生は、咳払いをしながら教壇を軽く踏んだりして、水平にした。そして特段説教も無かった。何事も無かったかのように授業を始めた。その後、自分たちは当時理由が分からなかったが、そんなことは止めた。自分たちの馬鹿さ加減に気付いたわけではないが、少し感ずるところが有ったのだろう。

そう言う懐かしい薪ストーブは絶滅し、聞くところに因れば、近辺の薪炭林も荒れているとの事だ。

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2006年8月13日 (日)

フクロウ

小学校5年生の時にフクロウを飼った事がある。

近所に住んでいる従兄弟が、いつもより早い時間に家に来た。フクロウが欲しくないかと言う。夢のような話しで、直ぐOKした。これから捕りに行くと言うことである。彼の漕ぐ自転車の後ろに乗った。自分は即席ラーメンの空の段ボール箱を胸に抱えていた。巣の近くは、路が悪いと言うことで、長靴を履いていた。

彼は自分の父と気が合い、夕食後よく家に来て父と雑談をしていた。その日は、自分のために早めに仕事を切り上げた。彼は自分より一回り以上年長で、従兄弟の気安さは有ったが、叔父さんのような、頼りがいのある大人だった。

巣は数日前に発見して、そのままにして遠くから観察していたのだが、その日に親鳥が死んでいるのを見つけた。それで急いで、自分の家に来たと言うことだ。場所は集落の外れで谷地になっている方だった。そちらに彼が農地を持っているのは知っていたが、実際の場所は知らなかった。自転車で舗装が穴だらけの町道を15分位走って集落を外れた。そこからは畑の中の小路を行った。途中から雑木林に成り、路は少しずつ下りである。最後は、路から外れ、谷地と雑木林の境の土手のような所を暫く歩いた。谷地近くの窪地には、もうすっかり汚くなっていたが、雪が少し残っていた。その年は寒い冬だったのだろう。

幹の途中から折れた木の根本近くに大きな洞が有り、そこに薄茶色のフクロウが羽を広げて、巣に覆い被さって死んでいた。羽を広げた長さは1メートル程だった。それをそっと掴んで木の横に寄せた。思ったよりずっと軽かった。巣の中には毛玉のような10数センチの雛が3羽いた。1羽は、他より小さく既に死んでいた。2羽は、大小は有ったが未だ生きていた。片方は相当弱っていた。その2羽を段ボール箱に入れた。巣の真ん中の巣材を少し脇に寄せて、穴を開けその中に死んだ雛を横たえた。親鳥は先ほどの様に羽で巣を覆うように置いた。

その日からフクロウの飼育が始まった。

古い鶏小屋に、2羽を入れて、餌のカエルを捕りに行った。いつものたまり場に友達がいて、帰りは一緒だった。大きい方は数匹食べたが、小さい方は食べなかった。翌朝小さい方は死んでいた。それから毎日のように友達とカエルを捕りに行った。カエルを殆ど食べなくなったときには、お小遣いを貯めて持って行き、魚屋でクジラの肉を買って与えた。よく食べた。嬉しかった。また暫くして食べなくなった。友達と意を決して蛇を捕りに行った。みんな棒切れを持って、自分はそれに大きな缶を持って出掛けた。裏山を彷徨いて、一匹の大きなシマヘビを見つけた。みんなで寄って集って、棒切れで叩き殺した。怖かったが必死だった。缶に入れて持ち帰った。缶の蛇は時々少し蠢いた。

一匹まま与えたが、フクロウも困っているようだった。比較的蛇に強い子が、皮を剥こう、と言い出しみんなで、交代しながら皮を剥いた。その時何か呪文の様な、何かかけ声を発したのだが、残念ながら今は覚えていない。剥いた身も少し蠢いていた。鉈で削いで食べさせたら、食用旺盛で丸呑みした、2日に分けて与えた。

二ヶ月ほどして夏になると大分大きく成った。バッタヤカマキリなどの昆虫も出て来たし、ネズミ取りのネズミも与え、餌の種類が多くなった。もう見てくれは親同然となったが、期待したゴロスケホッーホッーとは一度も鳴かなかった。ギャー、ギャーと言うばかり。我々は、いつもそれを聞いてがっかりした。それでも目は益々パチクリし、産毛も無くなりすっきりした格好になった。時々首をグルリと回し我々の歓声を誘った。

半巣立ち状態が続いた。我々の仲間じゃ無い子が、捕ろうとしたとか、網を持って追っかけた子が居るとか噂が立つ中、秋口には小屋の近辺から居なくなった。忙しい一夏が終わった。

それから23年近くの小社にある小さな杜に、夕方大きな鳥が止まっていることが有ったが、それが我々のフクロウだろうと我々は信じた。

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2006年8月 8日 (火)

モクズカニ

高校時代によく行った海辺に“沢目海岸”が有る。

学校のある駅から実家の有る方向と逆に行って四つ目の駅で降りる。駅前は寂しい。乗ってきた鉄道を渡って、国道を渡って、白っぽい埃の立つ狭い路をダラダラ歩いて行った。国道脇の小学校を過ぎれば後は舗装していない路である。その小学校を通り過ぎれば、人家がポツンポツンと有るばかりで、人とすれ違うこともなかった。海に近づくと数メートル高さの黒松の防砂林が有る。黒松も道端にある背の高い草も、家も砂が掛かり白っぽかった。100メートル程の防砂林を抜けると砂浜の海岸が眼前に開けた。屋根の低い古い漁師小屋が、二軒並んで建っている。北には県境となる山塊が見え、南には半島の山々が見えた。

海岸には小川が2、3本流れ込んでいたが、防砂林の切れる砂丘の辺りには殆ど水はなかった。防砂林の中を少し遡ると所々に水たまりが有る程度であった。水が沢山流れるのは、大雨の時だけなのだろう。

最初の内は一人で行っていた。海辺の草地に座って海を見ていた。夏はハマヒルガオが砂浜に咲いていた。防砂林の近くにはハマナスが咲いていた。少し陽が西に傾くと波にキラキラ反射して眩しかった。暫くボンヤリ過ごしてから、来たときと同じようにブラブラ歩いて戻った。

何回目かの時は、モクズカニが捕れると言う事で、誰かと一緒に行った。申し訳ないが、誰と行ったか記憶がハッキリしない。5月の終わり頃であった。その日は、それまで遠くにお互いを見ていた老漁師が、我々に声を掛けた。折角 来たのだから怪我をしたら詰まらないから、と言って古タイヤで作った、サンダルを貸してくれた。漁師小屋の軒先で着替えた。そこからサンダルを履いて水際まで行った。慣れないので歩きづらかった。水際の湿った砂の上で二人とも軽く準備体操をした。当時の習わしで水を掬って胸の辺りに付けてから、海に入った。

波は小波。水は澄んでいた。モクズカニ探しには絶好だった。2メートル位までの深さで大きな玉石が有る辺りを、探し回って泳いだ。水は冷たかったが、風が無ければ1時間ぐらいは、平気だった。最初の一匹を見つけてからは、比較的簡単に見つけることが出来た。大きな玉石の横に砂に埋まってジッとしていた。甲羅の一部と足が砂の上に化石の様にうっすらと見えていた。掴もうとして潜って手を伸ばすと、蟹は立ち上がって大きな鋏を広げて威嚇した。後ろから手を回し甲羅の横を掴めばはさまれる事はない。万が一挟まれたらこちらが手を離せば先方も挟むのを止めて、逃げ出すことが多かった。砂に潜られて見失う事もあったが、目で追いかけて居れば、また見つけ出すことが出来た。大きいのは暴れるし、挟まれて逃がす事も多いので、途中から分業した。自分は海の中で、掴んでは、陸に放って、相手は陸でそれを逃がさないで拾い集める。二人は1時間ほど、陸と海で大きな声を出しながら、遊んで十数匹捕まえた。久しぶりで一事に夢中になった。

一緒に行った友達は、老漁師からバケツを借りてそれに蟹を拾い集めていた。直ぐに脱走するので、板切れで蓋をしていたが、あまり効果は無かった。蟹は泡を吹きながらバケツの中で蠢いていた。老漁師に見せたら、茹でてくれる事になった。小一時間して、海水で茹でた蟹は濃いピンク色になった。美味しかったようにも記憶するが、ハッキリしない。3人でそれぞれ2~3匹ずつ食べて、残りは漁師の所に置いてきた。

それから数年後、別の友達と四国に行った。太平洋に注ぐ小川の川原を歩いていると、2~3匹のモクズカニが、不意に現れて、水の中に消えた。その時長い間忘れていた沢目海岸の老漁師の事を思い出した。地味でちょっと優しかった印象。顔はもう思い出せないが物静で感じのよい初老の漁師。それからモクズカニの事をテレビで見たり、いそうな所を歩いたりすれば、今でもあの老漁師の事を思い出す。

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2006年8月 5日 (土)

田舎の川

   

小学校の5年まで、夏は家の下を流れる川で泳いだ。

泳ぐ場所は昔から同じで家から歩いて5~6分の所にあった。場所は男女別になっていた。女子の場所は男子より200メートルぐらい下流にあった。泳ぐ場所は男女とも、下流側に小石の浅瀬と川原があり、上流側にはアマと呼ばれる、粘土を堅くしたような少し粘りがあって脆い岩のような物が底にある淀みの有るところであった。浅瀬は子供の膝ぐらいの深さで、淀みは、深いと言われていたが、3メートルも無かったように記憶している。ある時、大きな息をして、力一杯潜ってゆくと底に着いた。背が立たないと言うだけで、実際はそんなに深い所では無かった。

水浴するところの土手は川面まで少し高さがあり、脱いだ服を置いておけるちょっとした広さのある所だった。そこには人家の有る方から土が露出した5~60センチの小径を辿っていった。その草地の真ん中は子供達が頻繁に踏みつけるので、5~6畳の広さで土の広場に成っていた。周りはチカラシバやオオバコ、ツメクサが生えた草地である。

記憶が曖昧だが、女子達が泳ぐ方には土手に柳が数本有って日陰を作っており、男子の方には欅やらその他の木が生えており、やはり日陰が有った。その上は小さな杜になっており、鬱蒼として夕方以降は大人も通らないと言われていた。

何かの決まりが有ったのだろうけれども、多分10時前や午後3時以降に泳いだ記憶は余りない。近所の子と一緒に行ったり一人で行ったりしたが、行くと大抵、何人かが居た。多いときは20人以上居た。集落で時間や曜日を決めて余り混雑しないように緩い決まりが有ったようにも思う。

服を脱ぐときには日陰で服もそこの草地に置いた。暫くして、からだが冷えて、土手に上って、休むときは日向に居た。夢中で遊んでいて、唇が紫色になる子も居た。そんな時は誰かが、上がって少し休んだ方が良いと言うことが多かった。また互いに、未だ唇が紫でないことを確かめることもあった。

上の土手に上がった時は、草の上に座っていたと思う。大人が海水浴場でよくするようにゴロゴロして、長い間寝ていることは無かった。2、3人居るときは、オオバコの穂で引っ張り合いをしたり、シロツメクサの花を編んだりして遊んだ。チカラシバの穂で籠を編める子も居た。アブが飛んできて、時々咬まれた。お互い気が付けば、手で叩いたり、服を振り回して追っ払ったりした。咬まれると血が出たし、ビックッとするほど痛かった。シオカラトンボも頭や肩に止まった。川の法面にはムカシトンボが沢山飛んでいた。

小石が有るせせらぎでは、魚が泳いでいた。砂利の川原に仕掛けを掘って水が流れるようにしておくと、オイカワが何十匹も入り、みんなで夢中に成って掴もうとしたが、大部分には逃げられた。水面からピョンピョン跳ねて本流に戻った。中には陸側に跳ねてばたつくものもあった。

水めがねを持っている子は、それをはめて泳いでいたが、持っていない子も多かった。水めがねには、二眼タイプと、楕円の一眼タイプが有った。シュノーケルも有ったが、性能が悪くまた使い方も不慣れで水を飲んでおぼれ掛かる子が続出して、直ぐ廃ってしまった。

男子の場所から上流300メートルぐらいの所には、離れた集落の子供達が集まる所が有ったが、泳いだり川底を歩いたりして行ったことが2~3度有るばかりで、そんなに頻繁に行くことはなかった。そちらは男女が一緒だった気がする。浮き輪やタイヤのチューブに空気を入れて、それに乗って流されて、下流に来る子も時にはあったが、余り交流は無かった。小さい子供達は小さな閉鎖された、友達や空間で遊んで居たのだろう。

タオルやバスタオルを自分は持って行かなかったが、他の子達も持って行かなかった様に記憶している。上がって帰るときは、髪を掻きむしるようにして水を飛ばし、体を自然に乾かしてから、シャツを着てそれで下半身を隠して、『海水パンツ』を取り替えた気がする。

家に帰って、甕に汲み置いた水を柄杓でゴクゴク飲んでいると、いれば祖母や母が来て、腕に触ったり額に触ったりして、「冷たくて、涼しいねえ」などと言われた。有ればスイカやトウモロコシ、若しくはトマトやキュウリを食べてから、また遊びに出掛けた。それらには塩を付けて食べた。

そんな記憶も今では自分の事の様でないほど遠くなった。狭いながらクッキリとした小径も、蔓草や藪に覆われしまった。小石の浅瀬や川原も土に埋もれた。子供達の歓声が響いた田舎の川も、今や昔日の面影は無い。

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