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2006年8月18日 (金)

薪ストーブ

自分が卒業した高校は、XX山(念のため、バツバツヤマでは無く、ちゃんとした名前が有る)と言う台地の南端に建っていた。海に比較的近かったので、黒松が敷地の周りや校庭のあちらこちらに有った。 桜も数多く有り、八重桜は初夏の頃まで咲いていた。太平洋戦争前からの校舎は木造二階建てだった。戦後に増築された建物は殆どが平屋だった。今考えれば、環境が良く景色も良い場所だったと思う。まあ自分ぐらいの年で田舎なら普通のことだろうとは思うが。ついでに言えば自分が通った小学校も中学校も周りからは少し小高い場所に有り、木造二階建てだった。

小中高を通して冬の暖房は薪ストーブだった。小学校は薪を入れておく大きな部屋があったようにボンヤリ記憶しているが、中学校の時の記憶は殆ど欠落している。北西風の吹き曝しに建って居たて寒かっただろうから、ストーブに当たって暖を取ったのだろうけれど、全然覚えていない。薪小屋が何処に有ったかも覚えていない。そのうち何かの出来事を思い出せば、それに釣られて思い出すかも知れないが、当分無理そうだ。

高校が有った所も風が強い所であった。校舎の古い板張りの床には飛んできた砂が隙間に沢山入り込んでいた。掃除をしても取りきれるものではなかった。新校舎は少しマシだった。冬になれば雪になり砂の量は減ったと思うが、廊下が砂でザリザリするのは変わらなかった。

高校の時も、ストーブに当たって、とい記憶は余りない。風が強い分だけ外は寒く感じたので、あまり風のない室内に居ればそんなに寒く感じなかったのかも知れない。

冬になると、ある日から各部屋に薪ストーブが取り付けられた。円筒形でドラム缶の半分ぐらいの高さだったと思う。ストーブを焚く様になると、薪当番が名簿順に回ってきた。2、3人で朝薪小屋に薪を貰いに行った。1時間当たり4本だったと思う。つまり一日24本、太い細いが有るので、それは適当に案配していたのだろう。特に寒いときは量が増えた気がする。校内放送か何かあって、朝から多いときもあったろうし、昼に追加が有り受け取りに行った気もする。

朝はどういう風に火を付けたか記憶がない。大きな金属のバケツのような物で、用務員の人が、火種を配って歩いていたのかも知れない。帰りは薪が無くなって、例え放って於いても自然に消えただろうけれども、誰かが巡回して火の元の安全を確認していた事と思う。

薪ストーブは当時あまりにも日常的なことなので、印象が浅く、時代が変わった今としては、どう言う風に成っていたのか考えても分からない。やり方が何度か変遷したのかも知れない。3年で20数クラス有ったのだから、どう言うやり方をしても、用務員の方は、大変なご苦労な事だったと思う。

そんなことは当時、露思わず、幾つか悪さをした。他の組の振りをして2回貰いに行ったりしたことも有った。それを防ぐために何かカードのような物が有ったような気もする。それで用務員の方が、何か名簿のような物でチェックしていたのだろう。又、我々は1~2回薪小屋に盗みに行った。どのように侵入したかは、全く覚えていないが、正規の出入り口から行くわけはないので、壁板の剥がれている所を広げて入ったのだろう。薪は整然と積み上げられていた。ちょっと後ろめたかった。直接怒られたことは無いが、多分察知した出征経験のある先生が、全校集会で、軍隊時代の話しをした後、誰も盗みにゆく事は無かった。大変申し訳無く、又残念ながら内容は全く覚えていない。

薪は節約してストーブにくべた。節約した薪は、大きな教壇の下に隠しておいた。わざと片側にだけ積み上げて、教壇を斜めにしたことも有る。実習の女性教師は、ビックリしてそのまま教員室に逃げ帰ったこともあった。怒って説教をする先生も有った。寛大な先生は、咳払いをしながら教壇を軽く踏んだりして、水平にした。そして特段説教も無かった。何事も無かったかのように授業を始めた。その後、自分たちは当時理由が分からなかったが、そんなことは止めた。自分たちの馬鹿さ加減に気付いたわけではないが、少し感ずるところが有ったのだろう。

そう言う懐かしい薪ストーブは絶滅し、聞くところに因れば、近辺の薪炭林も荒れているとの事だ。

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