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2006年9月30日 (土)

もんぺ

30年ぐらい前にもんぺが若い女性に流行ったことが有る。

自分は田舎で育ったので、もんぺは田舎の農家の小母ちゃん、お婆ちゃんが穿くものと言う感覚があり、暫く馴染めなかった。ちょっとした集まりにもんぺを穿いてくる人がいれば、最初の内はちょっとからかったりもした。

「今日は何処の畑に行くだ、鍬はどうした」

「何の収穫だ、背負い籠は何処だ」

段々街の中にもんぺを穿いている若い女性が多くなると余り違和感は無くなった。模様は伝統的な紺飛白が多かった気がする。

もんぺは一年の流行だった様に記憶している。何で流行ったのか、何で廃ったのか、流行だから、よく分からないが、あのもんぺは何処に行ってしまったのだろうか。両親の里が農山村だったら、お婆ちゃんに上げた、と言うこともあろうけれど。大抵の人は未だタンスの奥に仕舞って居るのでは無かろうか。当時の彼女たちが買った物は流行の品だから、品質もそれなりだろうし、穿いた期間が少なくて余り傷んでも居ないだろうし。そのうち、諦めてフリーマーケットに出てくるように成ればもう一度流行るかも知れない。

もんぺに当たる男性用のものは、何だろうか。ニッカボッカだろうか。地味で安くて穿き心地が良い物が流行れば良いと思う。そうなれば買って普段着にしたい。

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2006年9月29日 (金)

バッタ遊び

この間、電車に乗ってドアの傍に立っていたら、少し離れた座席で窓を開けようとしている若い女性がいた。ちょっと違和感を覚えたので見てしまった。少し経って見直したら、向き直って普通に座っていた。電車が走り出して自分の後ろの方が少しざわついた。振り返ると、若い女性が数人席を立って移動していた。特段の悪い空気は無かった。どうしたのかなあと思って、空いた座席を見ていたら、そこの窓から音を立ててバッタが飛んだ。78センチの大きさであった。若い女性はバッタを窓から逃がそうとしたのだ。

バッタがつり革の下がっているポールに止まった、傘を持った青年がそのバッタを突いた。一緒の女性のためにと思った風だった。周りからは顰蹙を買った。その空気を感じてが、連れの女性も引いた風だった。又バッタが飛んだ。その先々で少し空気がざわついた。誰か捕まえて殺しはしないかと、胸騒ぎがした。初老の男性の胸当たりに止まった。彼は小さい声で「こんなもの」と言って捕まえた。自分はその人を、無意識に一瞬警戒の目で睨んだかも知れない。その人がバッタの頭と胴を両手でもって、バキッと折って床に投げ捨てる幻想が走ったが、そうは成らなくて、片手で掴んだときと同じように捕まえていた。少なくとも殺す風ではなく安心した。でも油断は成らない。バッタが驚いて糞でもすれば、事態は急転するかも知れない。彼は黙っていた。彼は次の駅で外に出て行ってそれを放した。バッタはホームの上を飛んで移動したが、電車が発車しても明るいホームの辺りを飛んでいた。数駅前でたまたま電車の中に飛び込んでしまったのだろう。大きな草むらに辿り着くと良いのだがなあ。

そのバッタを見ている時、小学校56年生の時によくバッタ遊びをした事を思い出した。

自分は小学校、中学校とも歩いて56分の所に住んでいた。小学校高学年になると日曜日には良く中学校の校庭で遊んだ。少し近いことも有ったが、開放感が有ったからだと思う。中学校は集落から離れていた。校庭の三方は沼に囲まれていた。

秋の午後、その校庭に友達と数人で行きバッタ遊びをした。大きなバッタを捕まえて、校庭の真ん中で放して、飛ぶのを走って追いかけて、着地したら捕まえる。また真ん中に戻って放して、飛ぶのを走って追いかけて、着地したら捕まえる。アラビアンナイトに出てくる世界で一番長い話みたいに同じフレーズが繰り返される。

太陽が傾き始めて、辺りがあかね色に染まり始める。子供達は息が弾んでくる。顔も上気してくる。最初の内は、上着、昔の小学生が着ていた学生服で、今考えれば人民服のようなデザイン、を着ているが、そのうち近くの草原に置いて走り回る。バッタの飛んで行く方向は、気まぐれで、すなわち行き当たりばったりで、誰が捕まえられるか、一種のゲームのような感覚で遊んでいたのだろうと思う。とても単純な遊びだったが、面白く遊んだ。バッタは一旦止まると、何故かは知らないが1~2秒は飛び立たない、感じとしては飛び立つ体勢を整え直さないと飛び立てないような感じだった。それでこの遊びは成り立っていたのだと思う。バッタが舞い上がり空に透かして見ないと見えなくなってくると、この遊びもお終い。もう地面は空の景色より余程暗い。誰かが捕まえ損ねて逃がしたり、最後の子が草むらの近くに放したりして、後は帰る。

今の子はそんな遊びはしないのだろうなあ。色々忙しいだろうし場所も無かろうし。将来、バッタについての思い出は特には無いだろう。

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2006年9月28日 (木)

北北西浦和駅

今の所浦和と付く駅は八駅有る。東西南北全てある。それに何にも付かない浦和を含めてもう四駅あり、全部で八駅という事です。

そのうち周辺の人口が増加して、○浦和駅と□浦和駅の間に新たに駅を増設するときは、どうなるのか今から楽しみです。中浦和駅は今でも有りますから、そのうち白浦和駅、發浦和駅などが出来て、それとも上中下で行くか。段々進んで北北西浦和駅ぐらいまでに辿り着いたら、それはそれなりにギネスに申請するなどするのでしょう。慶賀に堪えません、但し自分はその時まではとても生きているとも思われませんが。

近辺に住んでいなければ通過駅としてか乗換駅としてだけですから、無機質でも良いですけれど、最寄り駅が北北西浦和駅だったら、少し寂しい気がする。何となく自分の街の駅だ、と言う愛着が自分だったら湧かないかも知れない。

「どの駅で降りれば良いですか」

「北北西浦和駅、北西浦和駅の次だから、南南西の改札の前で待っています」

色々事情があって、今の駅名に成ったのだろうからそれはそれで良いのだけれど、その駅に乗降する人達が住んでいる街の名前を付けた方が自分の好みに合うなあ。コミュニティ創生にも役立ちそうだし。

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2006年9月27日 (水)

ポスター

2、3年前に見た政党のポスターに面白い文言が有り、未だに覚えている。

『今悪政に立ち向かう力を』

「水戸黄門」の力を借りた下々が悪代官に立ち向かうと言うステレオタイプなのか?テレビの時代劇でもそんな台詞は出て来ないと思う。でも面白くてそれを見たとき、六方を踏みそうになった。

ついでに同じ政党か別の政党かも覚えていないが、『くらしと憲法を守る』と言うのも有った。そんなことより生きた国民を守った方が良いではないかと、心の中で直ぐ突っ込んでしまった。当時くらしと憲法が踏みにじられていたのか?今はどうか?

『若い力を政治に』候補者が年齢的に若いと言うのは充分察しが付くが、だから何なんだ!とこれにも突っ込んでしまった。

ポスターは簡単な文言で、自分の主張を伝えたいので、どうしても表現が情緒的になり、単純化され、分かりにくい事が多いが、同じものが何枚も貼っていたり汚くなっていたりしなければ、散歩の時、突っ込んで退屈しのぎになる。枯れ木も山の賑わい。

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2006年9月26日 (火)

散歩で

「恐い顔で歩くな、明るい顔で歩け」自戒を込めて。深刻な悩みが有る場合は、勿論この限りではありませんけれど。深刻でも明るい顔、そんなに達観は出来ません。この話を聞いて既視感(既読感?)に囚われた人がいたら失礼しました。

今まで一番恐かったのは、大柄な中年のご婦人でカッパを着てタオルを巻いた頭にフードを被り、両手にダンベルを持って前傾姿勢で、全体的には少しぎこちなくこっちに向かってくるような早歩き方の人を見たとき。減量しているのか、苦行しているのか、カッパかスウェットスーツの耐久テストをしているのか、何かの罰を与えられているのか、色んな事情が有るのか無いのか、それは分からないけれども。こちらとしてはフワフワした現実に突然鬼が現れてこちらに向かって来たような錯覚に囚われたなあ。

デイバッグを背負って求道者のように歩く一人の老人。深刻そうに見えて幾つか気の毒なことを想像してしまうけれど、実際は春の花園のような心持ちで楽しんでいるのかも知れない。

いかにも散歩を満喫しています風の初老の方がいる。立ち止まっては花を愛で紅葉に感嘆し風の匂いに感動して。比較的にこやかで結構です。でも自分は多分成れないと思う。

自分がどう言う感じで散歩しているのか、ちょっと見たい気がする。友達が偶然見つけて悪戯心でビデオを撮って見せてくれる、と言うのが自分の自然な普段の姿であろう。恐い顔で大股でズンズン歩いていて時々何かに不快感を表しながら歩いていたらどうだろう。全くがっくりしてしまうなあ。きっとすれ違った人は、良い迷惑だろう。

静かにスッスッと歩いて少し笑んでいるような明るい顔の人がいる。ちょっと得した気分。

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2006年9月25日 (月)

健康が一番大切なので

「健康食品の宣伝だったら、それはお商売ですから、喜んで売って喜んで買って結構なことだと思います。残念ながら自分は買ったことが有りませんが」

「その人が行っている日課(散歩、太極拳など)の事を説明した後で。その人は見るからに健康そうで、何かをやっているからとか、全く思えず、親から頑健な体を貰ったとしか見えない。羨ましいけれど、ちょっと違うんじゃないかなあ」

「虚弱体質で病気に成りやすいのが、お上品で、そこから努力して健康になるのがあるべき姿みたいな雰囲気蔓延していて。頑健なのは○○で、全く頭を使わず、体だけで生きている見たいな。健康な人はそれを自慢してドンドン活躍していただきたいと思います」

「健康が一番大切なので、と健康な人に言われたら、そうなれない人は立つ瀬がない」

「健康でない人が沢山いるので、そう言う人達の事をすこしだけ考えて、出来れば少しだけ手助けして上げられたら良いかと思います。出来れば自分も思いやりの有る言葉遣いをして、少しは手助けをして上げられるようになりたい」

暫くぶりで会った友達が言っていました。彼は健康そうだったけれど、まさか何か病気の事を先生から言われたんじゃないだろうなあ。気休めの言葉を言うのは、落ち込ませそうだし、元気良く励ますのも、良くなさそうだし、かといって手を握ってジッと目を見るのもおかしいし、世間話をして今度また飲みに行こう、と言うのが良いのかなあ、ちょっと考えすぎか。

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2006年9月24日 (日)

腕時計

今まで自分は腕時計を三個買って、二個は貰って、一個は借りた。今手元にあるのは、二個だけ。

初めて腕時計を持ったのは、中学二年生の時だ。父が買ってくれた。父が同道して近くの時計店に連れて行ってくれた。一緒に行って何かを買ってくれたのは、これが記憶にある殆ど唯一の事である。夕食後、時計を買ってやるから一緒に来い、と言う。薄暗い街を歩いて時計店に着いた。もしかしたら父は下見をしていたのかも知れないが、主人と二言、三言話して、幾つか見せてくれた。好きな物を選んで良い、との事だった。当時流行っていた全部金属で文字盤が濃い青色をした時計を買って貰った。顔が火照るほど嬉しかった。当時慣れていなかったから「ありがとう」とも言わなかった気がする。

値段は5千円ぐらいだったと思う。もう少し高い物と、もう少し安い物を見せられた。高い方は少し大人びていて自分には合わない気がしたし、高くて少し気が引けた。安い方はどう言う感じだったか覚えていない。買って貰ったのは自分にぴったりで最新で輝いて居るように思った。それからいつもその時計をして歩いた。時々時計を見た。時間を見ると言うことより、時計を見た。腕にはその時計がある。新たに加わった自分の一部。それからその時計を6~7年使った。残念な事に、山中で運動量の多いトレーニングをしている時にバンドが切れて紛失してしまった。気づいた時は、踵を返して、暫く探したぐらいだった。でももう全く探せる距離でも状況でもなく、全くがっくりしてしまった。それから間もなく錆びて、土中に埋まったのだろうけれど、何となく自分にはその濃い青色の時計が今でも時を刻んでいるような想像がある。自分が駆け巡ったススキの野原の何処かで。

最初に自分で買ったのは、20代の時である。在り来りの安物の時計である。たまにはめる程度で普段はカバンに入れて持ち歩くだけで有った。数年使って壊れてしまった。

次に何かの記念で貰った。やや小型の普通の時計で有ったが、余り気に入らず、腕時計をなくした友達に上げた。

次に買った時計は文字盤の数字がアラビア語である。紛らわしいがアラビア数字、つまりは算用数字ではない。アラビアの数字である。面白がって暫く使った。その当時は書けたし、アラビア語風の発音で一応読めたが、今は書けないし、読めない。アルバ(4)とハムサ(5)位を覚えているだけである。馬鹿になっちまったもんだ。道端で買った安物だったけれど、金ぴかでちょっと趣味が悪く、バンドがのびちじみでそれなりに気に入って居たのだが、これをはめているとき面白がった友人が居たのであげてしまった。

次に買ったのは、これまた道端でオメ○の紛い物である。黒革のバンドで地味でちょっと見にはそれらしく見える。時々電池を買っては動かしてもう15年以上経っている。

愛しの時計を山中で無くしてから数ヶ月経って、実家に帰る機会が有った。兄が腕時計を数個持っていた。それで一個を貸してくれ、と言うことで持ち帰った。当時全盛を極めていたデジアナ時計。各種有ったが、自分が借りたのはデジタルとアナログの表示の大きさが同じぐらいの、分厚い重いタイプの物である。防水もしっかりしている。7~8年前に金属のバンドが切れて、腕時計の役は果たさなくなったが、未だにデジアナ双方が使える。もう約30年になる。外出時気分が向いたら持って歩いている。一ヶ月ほど前に気が付いたら、電池が消耗してアナログは止まっていた。デジタルは、表示が薄くなって見えなくなっていた。

電池を交換して貰おうと量販店に行って、頼んだら何処でもここで買った物ですか、とか聞いて、違うというと、違わなくてもそうかも知れないが、電池交換に二週間程度掛かるという。何か違うなあと思ながら、謝辞して個人の時計店に行った。少し高いのは覚悟していたが、電池の所に何か細工がしてあって交換できない、という。仕方なく、電池の番号だけ教えて貰って、別の店で電池を買って帰宅し自分で交換した。確かに電池の所に細工がしてあったが、それは規定より薄い電池を止めるための止め金具であった。最後に交換したときに、時計屋さんが細工した物であろう、それまでは、防水のパッキンが壊れることもなく、自分で交換していたのだから。

時計は復活した。又この時計は自分に時間を教えてくれる。長い間借りられている内に、この時計は貸し主を失ってしまったけれど。

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2006年9月20日 (水)

大根の干し葉

子供の頃、秋になると家の裏に大根が何百本も干している家が沢山有った。自分が手伝った訳では無いので、ハッキリとしたことは覚えていないが、少し干して漬ける物と、もう少し干して漬ける物と、たっぷり干して漬ける物が有ったと思う。全ていわゆるタクアンに成ったようだ。少し乾いた大根を少し折って食べると、ほのかな甘みがあってそれなりに食べられた。

自分はあんまり干さないで漬けたタクアンが好きだった。味ばかりではなく、保存性とか作業の手順、保存場所の問題などで、何種類か有った物と思う。次の年に又新たに漬けるまで食べていた。家族のご飯のおかず、親父の酒の肴、縁側の年寄りのお茶請け。

干した物では無いが、鉈漬けという大根の俄漬けは、多分好物の人が多いと思う。どれぐらいの地方で食べているのかは分からないが、自分が育った田舎では、晩秋から初冬に掛けて、良く作って食べていた。かなり寒く成ってからの漬け物だ。大根を鉈でそぎ切りにして、麹と塩だけで漬け、2~3日で食べられる。もしかしたら味の○も少し入って居たかも知れない。化学調味料などとは言わず、何でもその類は、味の○と言っていた。当時は今より相当高価だったけれども、少し入れると大抵の物は自分にとって味が良くなった気がした。鉈漬けの上澄みは薄く氷が張っていることが有った。たまたま去年思い立って漬けた。あんまり良いできでは無い気がしたが、つまり昔の美味しさを充分感じることは出来なかったが、隣人に少し食べて貰った。予想外に大変喜ばれた。何年ぶりかに食べたと、言っていた。そして思い出したらしく何処で食べたかも教えてくれた。ちょっと話が弾んだ。今年も又何処かで麹を買って漬けてみようと思っている。

スーパーの大根は、殆どは葉っぱが切られて売っている。自分にとっては残念な事だ。散歩をしていると、農家の軒先販売や協同出資の直販店では、新鮮な葉がたっぷり付いた大根を見ることが有る。そんな時は買って、大根の葉っぱも食べる。今まで何回か大根の葉っぱを干してみたが、一度も上手く行かなかった。勿論乾くのだが、黄色くなってしまうし、所々が場合によっては腐ってしまうのだ。多分気温が高すぎて風も無かったからだと思う。寒く冷たい風に晒して乾かさないと駄目のようだ。未だ自分の試みは成功していない。そのうち冷たい強い木枯らしの吹く日に屋上に干してやろうと思っている。

子供の頃、みそ汁は多分色々な物を食べたのだと思うが、今でもハッキリ覚えていて、食べたいと思う筆頭が、大根の葉っぱを乾燥させた物を水に戻して細切れにしたのを具にしたみそ汁だ。当時は大根の葉っぱを干した物は単に干し葉と言っていた。つまり食べたいのは干し葉のみそ汁。

煮干しの出汁に水で戻した干し葉を刻んでたっぷり入れたみそ汁。自分は必ずお代わりした。他のみそ汁もお代わりしたかも知れないけれど、これは必ずお代わりした、自分は好きだった。自分はそれに朧昆布入れて食べた。お椀にたっぷり干し葉の入ったみそ汁、その上から朧昆布を掛ける。汁が吸われてドロドロになるけれど、それがとても好きだった。

母は「ビタミンも多いし、美味しいし、これを食べると風も引かないし、医者いらずなんだよ」と口癖の様に言っていた。自分は好きだったので、「美味しいし、きっとそうだ」と思って食べていたが、今考えてみると半分は貧乏で食べているのでは無く、美味しいし栄養も有るから、食べて居るんだよ、という母が自分自身に言い聞かせると共に思いやりだったかも知れないと思っている。確かに今考えると貧乏だったかも知れないけれど、当時はそれが分からなかったし、貧乏だと特に考えたことはない。今考えるとそれは恵まれていた事だと思う。家族が健康で、夕食にはお腹いっぱいご飯を食べていた。当時だって未だきっとお腹いっぱい食べられない人は結構居たに違いない。

ああ今年は何とか、干し葉作りに成功したいものだ。

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2006年9月19日 (火)

越後屋(1)

友達が駅から電話をしてきた。ちょっと寄りたいという。勿論OKである。暫くして、玄関のインターホーンが鳴った。「ヤマ」と言ったら「カワ」と応えた。そこで山鹿流の陣太鼓が、鳴りはしなかったけれど、念のためのぞき窓から見ると、暗くてよく見えないが、目を凝らしてみると、でっかい目が見えた。向こうものぞき窓に目を付けて見ているらしい。変な奴だ。招じ入れると、土産を渡したいという。上がってもらい一緒にお茶を飲んだ。お土産はズッシリと重い。風呂敷に包まれている。開けると菓子折が出て来た。包み紙を取って蓋を開けると、饅頭である。ここで友達の目がニッと笑った。怪しいと思い饅頭を退けてみると、中には小判が入っていた。良く見たら最中だったけれど。

「越後屋、お主も悪よのう」

「お代官様ほどでは有りませぬ」

「ハッハッハ」


  話し声がドア越しに聞こえてきて外がざわついた。我々は目を見合わせて、少し身構えたけれども、三つ葉葵の紋の付いた着物を着た侍も、般若の面を被った侍も、商人風の爺さんが手代番頭風の小父さん達を引き連れて現れることもなかった。察するに隣人が犬に話しかけながら、散歩から帰った風だった。

「手前も賢くなりました、犬の言葉がよく分かります」

「越後屋、あれは、犬が人に話しかけたのではなく、人が犬に話しかけたのじゃ」

「さようですか、友達のような、家族のような話し方でしたが」

「それが今様じゃ」

友達は自分が持ってきたお土産の饅頭と最中を一個ずつ食べて、何事も無かったかのように帰った。駅に向かう坂道を歩く姿は心なしか少しぎこちない気がした。大丈夫か知らん、お互い様だけれど。

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2006年9月18日 (月)

バチアタリ

今銅の価格が上昇しているらしい。中国での需要拡大で市況が騰貴しているとの事だ。それで本場中国では電線盗難が頻発している。ついでに日本でも銅、すなわち我々が直ぐ理解できる形では電線の盗難が増加しているとのことだ。中国では活線が盗難に遭うと言うことだから、或る意味命がけで有る。今まで何人も火傷や感電墜落して大怪我をしたのだろう。日本では資材置き場や倉庫からの盗難が多いらしい。まあ当然と言えば当然な気がする。窃盗に命を賭けることはない。

住宅の解体をしている自分の知人に因れば、解体した後に、屋内の電線や、湯沸かし器の銅部分を回収して、屑鉄屋というのか金属類再生資源取扱業というのか、よく分からないが、(有)○○資源みたいな名称の銅屑、鉄屑などを買ってくれるところへ持って行くと、10時3時のお菓子と飲み物代ぐらいは出るのだそうだ。鉄は桁違いに安いが、これも再生資源として買ってくれるとのことで有った。

昔子供会で、リヤカーを引きながら、空ビンや鉄屑を集めたことがある。それを何処かへ持って行き換金した。それからどうしたのか覚えていないが、子供会のちょっとした物を買ったか、何処かに寄付したのだろうと思う。当時は何も考えないで定例の行事としてやっていたが、これも単なる場所塞ぎのゴミを資源化する些細な活動の1つだ。

数年前に軒先に出す古新聞や段ボール類を「持ち去る」人達がいると言うことで、話題に成った。怪しからん事なのだろうけれど、今もあるのだろうか。町内会の人が巡回して、余所の人がアルミ缶を持ち去らないようにしていた、等と言うことはもう無いのだろうか。

 その「町内会の人」とその「余所の人」の人の真ん中に線を引けば自分は少し「余所の人」側に入る気がする。本当は「町内会の人」側に相当近づかないと、現代の一般市民としては、良くないのかも知れないが。朝早く、徒歩や自転車でなるべく音を立てないようにしながらアルミ缶を集めている人を見ると、「お疲れ様、体に気をつけて」とつい思ってしまう。

先日、岩手の山中にある神社の屋根の銅板が丸ごと盗難に遭ったとのニュースが有った。鬼神をも恐れぬ、大胆なる所業と言うべきか。その人にしてみれば、その時はお宝が山中に放置してあるように見えたが、今頃は天罰を恐れて神経過敏に成っているかも知れない。でもまあ有り体に言えばバチアタリと言う所だろう。断じてそのバチアタリに与するものでは無いが、身体的危険が少ないこと、発見されにくいこと、等勘案すれば、活線を盗む輩に比べたら、知恵の使い方は良くないけれど、数段考え深いのだろう。こんな事を言えば、氏子の方々を初め善良なる人々に、自分もバチアタリ側の人として糾弾されそうで恐いけれど。

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2006年9月17日 (日)

鯰捕り

小学生の中学年の頃から中学生ぐらいまで、毎年夏は鯰捕りをした。最も熱心にやったのは、小学生の6年生か中学1年生の頃だったと思う。小学生までは夏は川で泳いでいたが、それも6年生の途中で禁止になってしまった。中学校の脇にプールが出来て我々の集落は、プールでしか泳げなくなったからだ。川も段々汚染されてきていた。泳げる限度を越えたという事なのだろう。場所によってはコンクリートの護岸が出来た。生活様式も急激に変化をし始めていた。新田の開発が進んで、川から揚水する事が多くなったのか、真夏は川の水量が減って、場所によっては殆ど流れなくなってしまう所もあった。

利用されなくなった小路は藪になって通行不可となり、土手が崩れて近づけない所も出た。鯰捕りのための場所も減った。

鯰捕りの仕掛けは置き針である。115メートルぐらいの竹竿に竿の長さの3分の2位の釣り糸を付けて大きな釣り針を結んである。竹竿は大抵、前年の内に近所の竹藪で23年物で出来るだけ根本の節が混んでいる物を取ってきていた。その場で枝を払い、根本は土に刺しやすいように尖らせておいた。切るときは、肥後の守に仕込んであったノコギリを使った。当時肥後の守には、ノコギリが仕込んであるタイプと小刀だけが鞘に折り込んで有る物の2タイプが有ったが、自分はいつもノコギリが仕込んである物を使っていた。多分学校には持ち込み禁止になっていたと思うが、放課後は常に携行していた。鞘の穴に紐を通して、ズボンのベルトに繋いで居たときもある。ポケットに穴が明いていて、落としたことが有るからだ。枝を取るときも少し太めの枝はノコギリで切ってから、小刀で滑らかにした。竹竿の先端は特に気を付けて加工した。傷が有るとそこからポッキリ折れるからだ。

次の年に仕掛けを作るときは、最初、針に凧糸を結んで、結び目にセメダイ○をしみこませた。当時この手の接着剤は全て、この名で呼んでいた。針は10本若しくは50本幾らだったと思うが、近くの何でも売っているお菓子屋で釣り具も売っており、そこでは、必要分、何本でも売ってくれた。凧糸を自分たちは紡績糸と呼んでいた。無駄が出ないように使った。まず針に糸を結んで、適当な長さで竹竿の先端に結びつけて、竿の先端が折れたときに魚を逃がさないように、元の方に30センチ位巻き込み、そこで節にしっかり結んだ。後は釣り糸が他の仕掛けに絡んだりしないように、竿の適当な位置に結んだ輪に針先を通してお終い。

餌は生きた泥鰌を使った。これは自分達で捕った物だ。カエルやミミズを使う人も居たが、自分たちは鯰捕りには、もっぱら泥鰌を使った。針は泥鰌の尻の横から背骨に掛からないように刺した。喰われていないときには、23日元気であった。その泥鰌の尻尾が水面よりほんの少し出て、水の波紋が広がる程度に高さを調整して、竿を土手に刺した。

夕方仕掛けを5~7本持って出掛けた。手間が掛かって帰り道は相当暗い事も有った。一回仕掛けると、餌だけ替えて仕掛けはそのままにする事も多かった。雨が近づいて来ていれば、朝仕掛けを見回るときに全て回収した。仕掛けたり回収したりしている内に、長雨が続いて、何とは無しに、その年の置き針も終わる。

仕掛けた翌日、朝5時前に家を出て、仕掛けたところを見回るのは胸の高鳴る楽しい事であった。一年物は掛かることが無かった。2年物、3年物が多く、何回かは年知らずが掛かった。掛け始めは多く、段々少なくなって行き、雨後何日かして水が落ち着くと又掛かった。一度超大物が掛かって、二人で何とか陸まで引き上げたが、そこで糸が切れて、斜面を鯰が下るので、下に回って、上に押し上げやっとの思いで網に入れたことが有る。その時は静かな田舎の川に子供の声と荒い息が響いたに違いない。

仕掛けに釣れているかいないかは遠くから見ても直ぐに分かった。釣れていなければ、釣り糸は竿の先端から鉛直に下がっていた。泥鰌は近づくと振動に驚いて暴れはしたが、それと釣れているのとは明らかに違っていた。竿が全く揺れていないのに、釣れているときは釣り糸が、沖側に少し引かれていた。胸が高鳴った。そっと近づくと、鯰が上を向いて、つまりこちらを向いて、少しだけ斜めになって、糸の先に付いていた。糸が切れたり、針が外れたり、竿が折れたりすることは滅多になかったが、竿を上げて、玉網に入れるまでの暫しの間は真剣だった。竿がゆっくり波打つ様に水面に引かれているときは勿論釣れていた。こう言うときは比較的大きいことが多かった。

今は一頃よりは水が綺麗になったが、もう鯰を捕る子供達は居ないようだ。近くの川や沼で釣りをする子供もいないのかも知れない。自分たちは少ないお小遣いを貯めて、肥後の守を買い、釣り針を買い、紡績糸を買った。そしてそれらを大事に節約して使った。竿は竹藪から採ってきた。

今の子供達は自分が子供の頃より、格段に知識が多くとても賢く豊になって、条件は良さそうだけれど、我々より楽しく真剣に遊んでいるのだろうか。何か欠けていることがある様な気がする。但しその大事なことを置き忘れてきたのは、今の子供達ではなく、自分達かなあ。

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2006年9月16日 (土)

図書館の本

 自分は時々市の図書館から本を借りている。本館が近くにあり便利だ。返すときは大抵、借りた本館に持って行く。期限ギリギリの時は、駅に行く途中にある返却ポストに投函するときもある。散歩のついでにその方向にある分館に返すこともある。自分では買えない本が、簡単に借りられて読める。図書館には感謝している。
 最近は借りた本にアンダーラインやコメントが書き込んであるときは、予想に反して詰まらない本で有れば、直ぐに返している。読みたい本であれば、丁寧に消して返している。書き込みは殆どが、鉛筆である。ボールペンや色鉛筆、マーカーでのいたずらは、比較的少ないようだ。最後の良心か。
 以前借りた有る人物の資料集のような伝記の様な本には、最初から最後までアンダーラインやら、ちょっとしたコメントが数多く書かれており辟易した。何かの勉強会で使った形跡であった。何か重大な誤解をしているグループでは無いか知らん。
 その本は大きくて厚かったが、読みながら、自分は時々メモを取り、書き込みは全て丁寧に消した。書き込みが鉛筆であったのはせめてもの救いだった。
 本の人は、自分が尊敬する人物である。彼が存命中に知ることになっていれば、何とかして会いたい人であった。もっとも自分が余り若いと、その人物を理解できなかったかも知れないけれど。
 普段はアンダーラインを見ても、「困ったもんだ」位にしか思わないが、その時は「この馬鹿、いい加減にしろよ」と腹が立った。

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2006年9月15日 (金)

未視感

 『誰にも既視感は、発現するらしい。多発する人も居るらしい。但し総合失調症、昔風に言えば分裂病の発症の初期症状としても発生するとの事だ。最近は余りないが、初出を覚えていないから、相当昔だろう。とすれば分裂病発症の初期症状と言う事も無かろう』
 『もう少しだ。腹も減ったし、急いで帰りたい所だが、いつも通りダラダラと駅前を歩いて、家に着いたらシャワーを浴びて、ビールを一杯飲みたいものだ』
 『みんなそれぞれ、帰るところが有って、待っている人がいて、居ない人もいるか。それぞれそれなりにやっているのか』などと考えながら最寄り駅の改札にさしかかったら、未視感に囚われた。
 「いつも通るいつもの駅のいつもの改札口なのに、初めて見るような感じだ。東西南北がハッキリしない。体が軽くは無いのに、少しフワッとした感じがする。全体が少しくすんで見えて、磨りガラスを通して見えるような感じだ。最悪と言う事は無いが、あまり気分は良くない。勿論直ぐに元に戻る。もしかしたらこの感覚は電車に座っていて、ちょっと眠くなって直ぐ目が覚めて、一瞬電車の進行している方向が逆じゃないだろうか、と感じる瞬間と似ているかも知れない」などと考えながら歩いて駅を出た。タマネギを剥いているようだ、うーん、次々に絵柄の違うマトリョーシカを剥いている様だ。
 自分もこんな時は暗い、恐い顔で歩いているだろうから、人の事を言えた義理ではないが、みんな結構恐い顔で歩いている気がする。みんなでもう少し明るい顔で、出来れば笑みを含んだ顔で街を歩きたいものだ。
 「そんな恐い顔をこっちに向けないで」と今日は自分が言われる感じだったんだろうなあ。

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2006年9月14日 (木)

近所の草

土地を借りてしている小さな農園にご近所が何軒か有る。そこの庭の草を見るだけで、そこの住人のことが幾つか想像される。

隣人として仲良くお付き合いしている人の庭は、いつも草が刈られていて、庭全体がすっきりしている。草花は季節ごとに次々に咲いて、いつも華やかだ。彼は体の調子が昔ほど良くないので、以前ほど熱心に世話をする事が出来ない。水遣りの回数も減ってしまった。木の剪定は2,3年前から自分が手伝う様になった。芝刈りも気が向いたときは、自分が手伝っている。いつも心の籠もった感謝の言葉がある。

雑草が伸びてくると、とても気になっているようだ。庭は彼の楽しみでもあるし、訪ねてきた友達や道路を歩いている人が見て、ガッカリしないように綺麗にしていたいようだ。

家の前の道路を以前は頻繁に掃いていたが、今は、その又隣人が、彼のためについでの時に掃いている。もう年配なので近所の人が何かと手伝うことが多い。顔が合えば垣根越しで話をしたり、お茶に呼ばれて、雑談をしたりする。昔の事や昨今のニュースの事、近所の様子、友達の事など話してくれて楽しい。

高いブロック塀で囲まれた家が有る。そこの奥さんと2,3度道路で挨拶をした事がある。元気な人で、傍でお話をしたが、そこら中に響き渡るような声であった。その時はその後自転車で何処かに出掛けた。

そこのお宅の庭には大きな牛と羊の置物が有る。道路側を見ている。駐車場はオオバコが生い茂り、玄関に通じる道は、歩くところだけ狭い幅で露出していて、後はクローバーが膝の高さぐらいまでビッシリと生えている。残りの大部分はススキが生い茂り、花が咲いて、草原の様だ。そこにいる牛と羊は、残念ながら草は喰わないらしく、草に埋もれて今頃は殆ど姿が見えない。ブロック塀の道路側にも所々にススキが生えている。全く気にして居る様子は無い。

アルミフェンスで囲まれたお宅が有る。別荘だ。良く庭でBBQをしている。通りすがって、挨拶しても軽く会釈をするばかりで、話したことが無い。居れば熱心に芝刈り機で庭の中の草を刈って綺麗にしている。隅には刈った草が放置されている。庭の一部は畑になっている。植えている物は、サツマイモ、ジャガイモ、カボチャなど、長い間放置してもそれなりに収穫できる物を選んでいるようだ。庭の道路側の縁石にはビッシリ背の高い草が生えている。刈ったのを見たことが無い。

自分の小さな農園は、自分の楽しみで、気晴らしなのだから、自分勝手にしているが、道路の縁石の草抜きと、道路の清掃は、社会通念程度にはしておいた方が良いだろう。それでもご近所や道路を歩いている人は色々想像するだろうけれど。お互い様。

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2006年9月13日 (水)

メガネ

友達に目がとても悪い人がいる。彼は冗談交じりにメガネを取ったら、自分の父親とゴリラの区別も付かない、と言っていた。

今彼は体格も良く背も高いが、子供の時は小さかった。小学校低学年の時は一番前に座っていた。段々背が高くなって中ぐらいに成っても一番前に座ることを希望した。それは黒板に書かれている字が見えなかったからだ。高学年に成って視力検査があって、自分は目が悪いことを発見した。それまでは他の人が後ろに座って騒いだりするのは黒板の字がよく見えないから仕方がないなあ、位の事は考えたが、一番前で黒板の字が見えないのは、自分の目が良くないから、だとは考えなかったらしい。

昭和30年代、40年代の小学生はメガネを掛けている人は少ない。それは目が良かったからではなく、いろいろな意味で気付かれていなかったからだと思われる。当時の子は、時に田舎の子はあまり勉強もしなかったし。

通報を受けた家族は彼にメガネを買い与えた。今までより黒板の字がよく見えるようになった。努力しなくても、まあまあ黒板の字が見えるようになった。別世界が広がった。それから彼はメガネ無しで過ごすことは無い。メガネを外していても、夢が見えないと言うことは無いから、寝るときは外すけれど、と言っていた。

そんな話をずっと昔に聞いて、「ばっかだなあ、目が悪いか良いかは直ぐに分かるだろうに」と一瞬思ったが、「ばっかだなあ」自分の方かも知れない。

自分は長い間、寝る前に横になりながら本を読んでいた。明るいところだとそれ程でもなかったが、少し暗くなると左側に本が有るとよく見えなかった。視力はどちらも殆ど同じである。灯りの方向かなあと思って、そのまま長い間放置していたが、視力が少し落ちて、より明るくしないと、本が読めなくなった。それでメガネを作った。何と右目は近視で、左目は遠視、視力はどちらも殆ど同じ。右目は遠くがよく見える、左目は近くの物しか見えない。先生の話だと、有る一定の距離で主眼として見る目が左から右に変わるのだと、すなわち遠くは左目で見て、近くは右目で見ているのだと。それでかどうか、矯正用のメガネを使うずっと以前から、眩しくてサングラスの愛好者だった。友達に話したら、「片方ずつ使うから、あまり疲れなくて良いね」だと。

新しいメガネでよく見えるかと言うと必ずしもそうではなかった。両目が矯正されて両目とも本を読む位置で焦点が会うけれど、少しずれているので、未だによく慣れない気分。

目が悪いのなら、二人で同じ物を見たときなどに気付くだろうけれど、自分は頭が悪いとか、思いやりが無いとか、無神経とか、結構気付かないのだろうなあ。ちょっとゾッとする。

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2006年9月12日 (火)

真夏の散歩

 朝早く起きて、身支度を調えて、軽い朝食を取って散歩する。帽子を被ってサングラスをして。なるべく日陰を比較的速く歩く。3~40分すると、心が少し自由になった気がすることがある。こうなると普段より足取りが軽い。
 周りの景色や草木が見えないわけでは無いけれど、無機的な背景に近づく。周りにはたくさんの人達がいる。その人達が、景色の一構成物となって、周囲に溶け込んだかのようになる。蝉や虫、鳥などが鳴いているが、フィルターを通して聞こえているようで、遠くの出来事のようである。自分は滑るように進む。周りの景色がドンドン後ろに流れて行く。そんな景色が善意の無言でいるような中を数時間歩いていると、何か吹っ切れたように感じる。
 先日の散歩で、久方ぶりにそんな感じになった。これは一種のランナーズハイなのだろうけれど、それでも良い。
 その日は、気分が少し晴れた。体はかなり疲れた。シャワーを浴びてから、スイカを食べた。昼食には素麺をたっぷり食べた。久しぶりに昼寝をした。

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2006年9月11日 (月)

南甲府市

  山梨県には甲府市がある、県の人口は約90万人、甲府市の人口は約20万人。去年は信玄公祭り、笛吹川近辺の桃の花、甲斐善光寺、身延山の枝垂れ桜などを見物した。果物が美味しい。景色が良い。あちらこちらから富士山が見える。よく行くところだ。行くとホウトウを食べるのも楽しみだ。友達も何人かいる。
 「
甲府市の他に山梨市があり、甲斐市があり、甲州市がある。そのうち南甲府市、北山梨市、東甲斐市、西甲州市が出来るかも知れない。旅行する楽しみが増えた。そうすれば将来子供達から県か市のお偉いさんに『どうして山梨県には、甲府市があり、山梨市があり、甲斐市があり、甲州市があるんでしょうか』と問われる気遣いは少なくなるねえ」と山梨出身の友達に言ったら、「もう南アルプス市は有る」と。

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2006年9月10日 (日)

ナンバンギセル

昨日ナンバンギセルを見に行った。今年二回目。近くで友人と待ち合わせて、群生地に一緒に行った。家から自転車で10分ぐらいの所に有る遊水池に有る。かなり年配の先客がいて、熱心に写真を撮っていた。ススキやワルナスビを掻き分けて、ナンバンギセルを見やすいようにしていた。彼は毎年通っている。今年は例年より出現が早い。何回か草刈りが行われ宿主のススキが減ったが、今のところ全体的にはナンバンギセルの発生は減っていない。来年以降は草刈りの時、群生地のススキを刈り残した方が良いだろうと言っていた。その人とは別の花の季節に別の場所で会うかも知れない。そこで又元気な姿を見せて貰い、二言、三言言葉を交わす機会が有ればよいと思う。

見た後、友人と木陰を少し散歩した。近くのファミレスで近況など話ながらお茶を飲んだ後、手を振って別れた。

この花を知るようになったのは、数年前のことである。当時近所に住んでいた年配の友人が教えてくれた。彼は植物画の題材としてしても、形も色も中々良いと話してくれた。自分には絵心が無いので、デジカメで撮り、親しい友人に知らせた。

遊水池の近辺は小さな自然公園が幾つか連続していて、遊歩道が何本もあり、散策している人が多いけれども、この花はススキの群落の根本に咲くので、それを知らないと、大部分の人は、花に気付くことなく通り過ぎてしまうだろう。

ナンバンギセルは、ハマウツボ科の一年草である、漢字で書けば、南蛮煙管と書く様だ。見た目がキセルのようなので、戦国時代末期に伝来したキセルに因んで命名されたのであろうとのこと。見た目からすれば全く言い得て妙である。少し調べてみたら、思草(オモイグサ)、とも言うことが分かった。これは万葉集に有る歌からの命名である。当時は静かに俯き加減で咲いているので、物思いに耽って居るように見え、思草と名付けたのかも知れない。

「道の辺の尾花がもとの思い草 今さらになど ものか思はむ」詠み人知らず。どう言う場面を考えて解釈するにせよ、心引かれる歌である。

今更、標準和名を変更するわけにも行くまいが、これを知ってから自分の心の中では思草となった。思草、良い名前である。この花が咲いて見に行ったり、近くを散歩して心に浮かんだりする度に、教えてくれた人や、知らせた人、そこで一緒になった人など、様々な事を、思い出す思草。

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2006年9月 9日 (土)

ミミズ

職場で木の根を掘り起こしていると、ミミズが出てくる。大きいのは20cm以上。彼の好きに任せているが、土成らざる所に出て行こうとしているときは、箒で柔らかい掘ったところに戻している。

そのうち、週末釣りに行くときに出て来たら空き缶に入れて集めておこうと思っているが、未だその機会は来ていない。ウナギ釣りにはこの餌が一番だ、と友人が言っていた。でも230匹集めるのは大変だと思う。腐葉土の有るところなら、真面目に掘れば可能だろうけれども、仕事の合間に集めても、長生きさせるのは、難しそうだし、実際はやらないかも知れない。

散歩しているとミミズが舗装の路に蠢いていることがある。そんな時、ずっと昔の事を思い出す事がある。子供の時はよく釣りに行った。用水池に水が満々と溜まっている土手の枯れ草の上に座って、鮒釣りをするのは楽しい物であった。その日の散歩は、景色も草花も天候もいつものように感じているが、心はその当時の釣りの事どもが次々に浮かんできて、尽きることがない。

10代の末頃、近くの川か沼に釣りに行こうと思って準備をしていると、遠戚の子供が近くを通りかかった。彼も子供同士で釣りに行っているのは知っていた。それで、ミミズを掘ってくれたら、お駄賃、と言う事で頼んだら、彼は喜んで掘り始めた。農業地帯だから、田圃を経営している農家は藁を主体とした堆肥を家の裏に作っていた。その堆肥の横を掘るのだ。良いところに当たれば、直ぐ一回の釣りに十分な量が採れる。間もなく彼のいるところへ行くと、最初は鍬を使ったようであったが、土から空き缶には未だ小さい素手で掴み入れていた。少し驚いて、済まない気がしたが、彼は喜んで次々に掴み入れていた。それで彼のツメの先が黒い理由が分かった。彼は少し前に自分のツメを見て、どう言う風に汚れを取っているのか、とそう言えば聞いていたなあ。

暫くして一緒にミミズを掘ったときには、近くの木の枝で二人分の箸を作って使ったが、ミミズが土に潜ろうとするので、急ぐ彼は未だやっぱり、時々素手で掴み入れた。このミミズは赤く大きさは67cm。

彼は未だ当時小学生の低学年だったから、そんな当時の事は覚えていないだろうけれども、こちらは、その時間と景色を切り取ったように覚えている。いつか親しく話す機会が有れば、言ってみたい事であるし、彼にも何か言ってみたい事が有り、話が弾むかも知れない。

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2006年9月 8日 (金)

要介護

 昨日だったかテレビを見ていたら、介護に関しての番組があった。途中から見たので少し意味の分からない事が有ったが、良かれと思って改正したことが、逆に悪くなる人々が出て困っているとの事であった。将来的には社会が対処に習熟して行き、もっと良く成るであろうとの事の様だった。
 それとは関係なく、要介護と何回も繰り返されている内に、自分の耳には妖怪語とか溶解後、若しくは八日以後とか聞こえてきて、今一つ理解できにくかった。少し疲れているのかなあ。

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2006年9月 7日 (木)

蝉の国

日本は蝉の国だと思う。今の季節、日本中何処を旅行していても、蝉の鳴き声が響いてくる。

朝早くと夕方なら、遠くで鳴くヒグラシのややもの悲しい声。辺りが薄暗いことも一層気分を盛り上げる。日中は明るくうるさいミンミンゼミ、じっとりして暑苦しいアブラゼミ、ハッキリしないニイニイゼミ、少し風変わりなツクツクホウシ、全山沸き立つようなクマゼミ。今の季節は、夜中でもアブラゼミが、一声、二声鳴くのが聞こえるときがある。寝ぼけているのかも知れないが、慌てて止めるような感じもして自分は好きだ。

日本の蝉は56年地下で過ごすらしいから、地上の状況が変わらなければ、来年出てくるもの、2年後、3年後・・・に出てくるのも達が、地下で並んで、幼虫時代を過ごしているのだろう。そのもの達の子孫が、順繰りに地下に入り、自分たちが地上に出る順番を待って、長い間地下で過ごしている。

調べたところに因ると、その年に産み付けられた卵は翌年に孵化して地下に潜る、この時の生存率は5%以下。地中に56年居て、成虫で約2週間の命。1m以上の地下から、23週間掛けて穴を掘り上げながら、地上寸前で止まって、本能が今だ、と命じるまで、ジッとして時季を待って、地上に這い出て、羽化するための高い木を探す。

そして地上に出て来たら、事故がなければ羽化して、羽が硬くなって飛べるようになるまで待つが、その前の待ちに比べたらほんの一瞬。そして飛び立って気に入った木を探して止まる。さあ飲んで歌って喋って食べて、恋をして、子孫を残して、そしてサッサと死んでしまう。死ぬ前に地上に転がって、手足がゆっくり空を掻いているときは、もう陶酔の夢の中。

先月の末に外房に行ったときに、日曜日の朝、家の土台に蝉の脱け殻が有り、その少し上に、ご本人が鎮座していた。驚かすつもりは無かったが、近づいて覗き込んだら、飛んでいってしまった。これから飲んで歌って・・・
 子供の頃、偶然羽化を観察したことが有る。その時とは見る目が違っている。残念で有った。前日夜に気付けば、じっくり彼の(もしかしたら彼女の)気分を想像しながら、じっくり観察できたものを。そのうちデジカメを持って、近くの公園に行ってみようかなあ。但し怪しいおじさんと、思われるだろうなあ。蚊取り線香を焚いて、木々の間を彷徨いて、暗い中、LEDライトを付けて、地面や木を一本一本見て歩く。そのうち歩いている蛹を見つけたら、近くにお停まりいただいて、レジャーマットの上に寝そべって、タバコを吹かしたり、水を飲んだり、菓子を食ったり。時折メモを取りながら、デジカメで撮影。彼と同じように楽しみながら。

レジオンドヌール勲章の略章も胸に付いている訳ではないから、質問をするような人には近づいて来て欲しくない。思っただけでも、ちょっと心躍り、ちょっと憂鬱な気分。いいおっさんが「蝉の羽化を観察して居るんですよ」誰も信じないなあ、ついでに「学校の自由研究で出そうと思って」これは冗談。

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2006年9月 6日 (水)

極楽落とし

 昔は多くの家で、ドブネズミが天井裏を相当大きな音を立てて、駆けめぐることが有った。流し近辺にも出没した。それでネズミ取りなるものが有り、自分でも仕掛けたことが有る。
 それは大きさがA4を三等分したぐらいの板の上にバネ仕掛けのコの字型の針金が付いている物。今はアンティークネズミ取り、と言うらしい。当時は単にネズミ取りと言っていた。煮干し何ぞを仕掛けておくと、トムとジェリーじゃないからチーズは仕掛けない、食いに来たネズミがそれを引っ張り、留め金が外れて、かなり強力に反転する針金と板の間に挟まって、首の骨や背骨が折れて死ぬという物。血まみれで目や歯を剥いていて、今考えると相当不気味。
 粘着ネズミ取りというのも後で出て来た。B4位の大きさで、ガムテープの強力な物と思えばよい。今でも似たものが売っているかも知れない。そこにへばりついて、暴れて益々粘着して、動けなくなる。近くのゴミ捨て場に捨てておけば、数日中に餓死してしまう。これはこれで残酷、一思いの方が、未だ良いか?
 共通名称は不明だが、極楽落としと言っていたネズミ取りがある。底の広さがB5ぐらいの金網の籠で、餌に誘われ中に入ったら落とし戸がしまって閉じこめられる物、上に漏斗のような格好の入り口があり、入れるが出られない。閉じこめられた仲間を助けに来たネズミが入ってくると言われていた。実際何匹か入っているのを見たことが有る。名前は極楽落としだが、実態は地獄落とし。最初は極楽のようでも、その後が結構恐ろしい。籠ごと水に沈めて溺死させる。ああ恐っ。見たことは無いけれど、人の噂では、籠の消毒も兼ねて、逃げ惑う子羊ならぬネズミにヤカンから熱湯を注ぐ人も有るらしい。想像しただけで、トラウマに成りそうな、悪夢に出て来そうな、でも案外直ぐ慣れる物かも知れない。

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2006年9月 5日 (火)

書類が行方不明

      職場で書類が行方不明になる。

      支店内ではよく書類が行方不明になり、探す時間が長い。理由は在り来り。本社でもよく支店から送った書類が行方不明に成る。この理由も在り来り。それで写しを送るが、その前後に本状が出たりして混乱する。又、要求のあった書類を急送する。2週間後ぐらいに、未だ来ていない、と督促があり写しを送る。それで全ての書類に送付状を付けたが、内容と異同が有ったりして、混乱に拍車を掛ける。勿論送付状も無くなったりする。殆ど処置無しだ。書類に大きな時間を割かれる。でも実業務にはさして差し障りがない。うーん、自分は少し悩んでしまう。書類全廃では、それはそれで困るだろうし。

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2006年9月 4日 (月)

酒とタバコ

 雑談をしていたら、同僚の一人が、大きな身振り手振りをしながら、仰いました。(ほざいたのかも知れないが);『 酒は血管を膨張させる、そうだよね、タバコは血管を収縮させる、そうだよね。自分は、昔一年間タバコ止めていたが、飲んでいるとき一本だけ!で、それから今までずっと吸っている。クラクラとも来なかった。酒を飲み過ぎて血管が広がったら、タバコを吸って血管を収縮させる。健康の秘訣』
 酒もタバコも止めた同僚が居る。

 タバコだけ止めて、酒はそのままの同僚が居る。
 
初めから双方ともやらない同僚が居る。
 その他いろいろ居る。
 同僚の一人が言った。『人それぞれの楽しみを愉しめば良い』 同感なり。

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2006年9月 3日 (日)

キノコ採り

昔良く裏山でキノコ採りをした。今で言う里山、裾には開墾された田圃や沼もあった。上の方には松や杉の林、果樹園、畑などが雑木林とも荒れ地とも付かない所に点在していた。

一行は34人の事が多かったが、10人ぐらいの時も有った。特に話し合って決めたわけではなく、土曜日の午後などは、時間が長かったので、裏山でバラバラ遊んでいる内に、誰かがキノコを見つけて、みんなが競って探し始めて、キノコ採りになる。

松の疎林の中で、みんなが広がって適当に探して、23本見つけると、みんなが寄っていって一緒に探す。大きなのが何本も採れた時には、嬉しかった。採ったものは、ススキの穂に刺して持ち歩いた。小さなキノコがたくさん採れたときは、フキとか蓮の葉に包んで持ち歩いた。小さい子が居れば、兄弟ばかりではなく、大きな子達が、或る程度採れるようにした。

採れたキノコは、今考えると、ハツタケ、アミタケ、サクラシメジ、ナメコ、ハナイグチなど。杉林では殆ど唯一のキノコだったスギヒラタケも良く採った。倒れた杉の木にこけが生え、その上に白いキノコが遠目にもハッキリ見えて、量も多かったし、嬉しいものだった。

去年だったか、腎障害のある人がスギヒラタケを食べて、脳障害を発症して死亡したとする報告が有った。大変気の毒なことである。昔から食べていただろうに、驚き悲しんだことで有ろう。急に毒性を持つに至ったのか、それとも昔から有ったのか、類似した別のキノコなど、別の原因なのか、充分調査して、早く我々にも知らせて貰いたいと思っている。昔の事は、古い町だったら、お寺の過去帳などを調べると、特異な死亡原因について、類推が利く記述が見つかる事も多いと聞く。その町の遠い昔の事なども調べたら良かろうと思う。

このキノコは見つかれば、一本の木にみんなが群がって丁寧に摘んだ。白く綺麗で、見た目にも良く、歯触りが良く、美味しかったと記憶しているが、残念なことだ。

我々は、探せる場所で一旦探し尽くすと、小路を辿って、又ありそうなところに移動した。もう当時何を話しながら歩いたか覚えていないが、たくさん取った時の話しや、群生や菌輪それに列生を見つけて驚いたときの話しを繰り返ししていたのかも知れない。親から聞いた話なども話題に成っていただろう。その年から仲間に入った小さい子達には初めてのことだし。

今、自分を含むその子供達の一団を見たら、相当みすぼらしく、貧乏くさい感じであろう。今一度見てみたい気がする。家も町も子供達も今の基準からすれば、ずっと汚かった事は間違いがない。ただ、里山は今よりずっと明るく、よく手入れされ、細いがクッキリした道が沢山付いていた。蔦類で藪となっているところは少なかった。倒木が長い間放置されていることもなかった。

裏山を歩いているときに、歌の好きな子は、進んで歌を歌った。それに合わせて歌う子もあった。音痴でも別に構わなかった。途中にヤマブドウやナツハゼの実が有ればそれらを食べた。喉が渇けば、湧き水に行って、クマザサの葉を曲げ折って、それで汲んで何杯も飲んだ。陽が傾きかければ、夕日に照らされて家路に就いた。採ったキノコを母親に渡すときは、少し誇らしかった。

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2006年9月 2日 (土)

木の実採り

 朝早く家を出て、年配の友人を訪ねた。約束の時間にその駅に着いた。日に焼けて前にも増して元気そうな彼が立っていた。二人で木の実採りにその地の里山に入った。軽装ながら二人とも白い軍手をしている。彼は高枝バサミを持っている。ポツポツと日常の事、共通の友人の事を話しながら、まばらに草の生えた山道を歩いた。
 木の実は、本年は昨年に比して、不作だという。初夏の長雨のせいだろうとの事。それでも彼が事前に調べておいてくれたので、果実酒一瓶分を難なく採集した。赤黒く熟したウワミズザクラと柔らかくなる寸前のサルナシ、どちらも適季である。
 滞在は数時間のみであったが、茶菓、昼食をご馳走になった。帰り際には、途上の親類の方を訪ねた。収穫したばかりのトウモロコシと茶菓をご馳走になった。暫く雑談をした。
 高原の爽やかな空気の中で、ゆったりとした楽しい時間を過ごした。駅前で再会を約して、手を振って別れた。

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2006年9月 1日 (金)

集合住宅の住人

 昨日、自分が住んでいる集合住宅の住人が前を歩いていた。知り合い同士のようだ。後ろから追いついた人が、挨拶をして、今度は二人並んで歩き始めた。建物は最寄りの駅から5~6分の所に有る。二人の前にも数人バラバラに歩いていた。結局自分の直前を歩いている人はみんな、自分が住んでいる集合住宅の玄関にゾロゾロと入っていった。「なーんだ」と思ってしまう。
 知り合いなら、エレベーターでちょっと話をするだろう。「今晩は」だけの人も居るだろう。ちょっと会釈だけの人も有るだろう。
 少し前に、館内ニュースで「よりよいコミュニティを作るために」と言う事で記事が有った。ここに新築当時から住んでいる方々は自分よりずっと年配である。自分は比較的新参者だが、自分が出来る範囲で、行事に参加して、コミュニティの創生に協力してきたいと思っている。
 今朝階段を下りて行ったら、下からの人とすれ違った。自分が先に見つけた。「お早うございます」「お早うございます、行ってらっしゃい」「行ってきます」館内の会議で顔を見知ってから、これで3回目だ。一生涯親しく話す機会は無いかも知れないが、又少し身近に感じた。

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