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2006年9月24日 (日)

腕時計

今まで自分は腕時計を三個買って、二個は貰って、一個は借りた。今手元にあるのは、二個だけ。

初めて腕時計を持ったのは、中学二年生の時だ。父が買ってくれた。父が同道して近くの時計店に連れて行ってくれた。一緒に行って何かを買ってくれたのは、これが記憶にある殆ど唯一の事である。夕食後、時計を買ってやるから一緒に来い、と言う。薄暗い街を歩いて時計店に着いた。もしかしたら父は下見をしていたのかも知れないが、主人と二言、三言話して、幾つか見せてくれた。好きな物を選んで良い、との事だった。当時流行っていた全部金属で文字盤が濃い青色をした時計を買って貰った。顔が火照るほど嬉しかった。当時慣れていなかったから「ありがとう」とも言わなかった気がする。

値段は5千円ぐらいだったと思う。もう少し高い物と、もう少し安い物を見せられた。高い方は少し大人びていて自分には合わない気がしたし、高くて少し気が引けた。安い方はどう言う感じだったか覚えていない。買って貰ったのは自分にぴったりで最新で輝いて居るように思った。それからいつもその時計をして歩いた。時々時計を見た。時間を見ると言うことより、時計を見た。腕にはその時計がある。新たに加わった自分の一部。それからその時計を6~7年使った。残念な事に、山中で運動量の多いトレーニングをしている時にバンドが切れて紛失してしまった。気づいた時は、踵を返して、暫く探したぐらいだった。でももう全く探せる距離でも状況でもなく、全くがっくりしてしまった。それから間もなく錆びて、土中に埋まったのだろうけれど、何となく自分にはその濃い青色の時計が今でも時を刻んでいるような想像がある。自分が駆け巡ったススキの野原の何処かで。

最初に自分で買ったのは、20代の時である。在り来りの安物の時計である。たまにはめる程度で普段はカバンに入れて持ち歩くだけで有った。数年使って壊れてしまった。

次に何かの記念で貰った。やや小型の普通の時計で有ったが、余り気に入らず、腕時計をなくした友達に上げた。

次に買った時計は文字盤の数字がアラビア語である。紛らわしいがアラビア数字、つまりは算用数字ではない。アラビアの数字である。面白がって暫く使った。その当時は書けたし、アラビア語風の発音で一応読めたが、今は書けないし、読めない。アルバ(4)とハムサ(5)位を覚えているだけである。馬鹿になっちまったもんだ。道端で買った安物だったけれど、金ぴかでちょっと趣味が悪く、バンドがのびちじみでそれなりに気に入って居たのだが、これをはめているとき面白がった友人が居たのであげてしまった。

次に買ったのは、これまた道端でオメ○の紛い物である。黒革のバンドで地味でちょっと見にはそれらしく見える。時々電池を買っては動かしてもう15年以上経っている。

愛しの時計を山中で無くしてから数ヶ月経って、実家に帰る機会が有った。兄が腕時計を数個持っていた。それで一個を貸してくれ、と言うことで持ち帰った。当時全盛を極めていたデジアナ時計。各種有ったが、自分が借りたのはデジタルとアナログの表示の大きさが同じぐらいの、分厚い重いタイプの物である。防水もしっかりしている。7~8年前に金属のバンドが切れて、腕時計の役は果たさなくなったが、未だにデジアナ双方が使える。もう約30年になる。外出時気分が向いたら持って歩いている。一ヶ月ほど前に気が付いたら、電池が消耗してアナログは止まっていた。デジタルは、表示が薄くなって見えなくなっていた。

電池を交換して貰おうと量販店に行って、頼んだら何処でもここで買った物ですか、とか聞いて、違うというと、違わなくてもそうかも知れないが、電池交換に二週間程度掛かるという。何か違うなあと思ながら、謝辞して個人の時計店に行った。少し高いのは覚悟していたが、電池の所に何か細工がしてあって交換できない、という。仕方なく、電池の番号だけ教えて貰って、別の店で電池を買って帰宅し自分で交換した。確かに電池の所に細工がしてあったが、それは規定より薄い電池を止めるための止め金具であった。最後に交換したときに、時計屋さんが細工した物であろう、それまでは、防水のパッキンが壊れることもなく、自分で交換していたのだから。

時計は復活した。又この時計は自分に時間を教えてくれる。長い間借りられている内に、この時計は貸し主を失ってしまったけれど。

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