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2008年4月17日 (木)

徘徊、放浪

最近は徘徊と言うと特殊な意味が加わって、介護施設に入っている老人が何かを探し求めて、夜中に長時間歩き回る様な情景を連想したりするが、まあこれも徘徊には違いないけれども、普通はそんな悲惨な情景ではなく、単に行ったり来たり、比較的狭い地域を歩き回ることや、彷徨く事を指す言葉だろう。

彷徨く動機に特段の意味が無いこともあれば、内心と表面上と乖離している場合もあるだろう。青年が意中の人と会う機会を増すために、その人が出没しそうな地域を徘徊して、友達に会って「ちょっと散歩」ってなもの。

徘徊する範囲が格段に広がって、時間も長くなると放浪すると変化しそうだ。字面の感じからすると、徘徊は同じ所を何回か通りそうだが、放浪は一筆書き交叉無しの様に自分は感じている。徘徊にも特段の当ては無いが、放浪と成るともっと茫洋としている。

今でもそうであるけれど、街中と言わず野山と言わず自分は徘徊するのが好きである。住んでいる街はもとより近隣も徘徊するし、電車やバスで出掛けていって、探見と言えば探見だけれど、その街に住むつもりになって徘徊することもある。誰かから普段何かしておりますか、と言われたら、徘徊とは答えないで散歩と答えている。

少しお金と暇が有れば小放浪する。人生ってそもそも放浪の様な気もするけれどもね。

田舎に居た頃、小学生から高校生の時まで頻繁に里山を徘徊した。小さいときは友達と一緒と言うことが多かったが、長じるに従って1人と言うことが多くなり中学生も後半以上になると全く1人だけで徘徊した。夏は放課後だったり早朝だったり、それ以外の季節は放課後。週に2312時間里山を徘徊した。休みの日には半日、一日徘徊した。空を見て長時間過ごしても飽きると言うことが無かった。

里山は松の林、杉の林、雑木林、笹野原、藪、点々と用水沼。日中獣を見ることは無かったが、鳥や虫、その他の動物が身近にいた。里山そのものが生きていた。

当時はそれぞれの集落に通じる小路が縦横に走っていた。小路の真ん中は人が一人か二人歩ける程度に完全に草が無く、黄土色や焦げ茶色の土が露出していた。山菜を採ったりキノコを採ったり、木の実を採ったり昆虫を捕ったりもしたが、大抵は彷徨くだけ。

そんな里山の小路も草が生え、藪となり、もう徘徊する路も無くなってしまった。

自分がロマだったら又考えが違うかも知れないが、ちょっと憧れるなあ。何を感じ、考えて放浪して居るのだろうか、喜びと悲しみ。焚き火の下で彼らの話を聞いてみたい気がする。

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