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2008年12月28日 (日)

お焦げご飯の食べ方

小学生の頃毎日学校が終わると、小走りで家に帰り、鞄を放り出して外に遊びに行った。春もそうだった。夏もそうだった。秋もそうだった。冬もそうだった。毎日忙しく続きで遊んでいた。今考えるとそんなに遣ることが有ったのかなあと思うが有ったのだ。雨の日は、家の土間で同時流行っていた子供の遊びをしていた。学校の体育館で放課後ずっと遊んでいることも多かった。

時々はずっこけたり、ぶつかったり、木から落ちたり、小さな怪我捻挫は頻繁に起きたが、大きな事は幸いにも一度も起きなかった。

稲刈りが終わると、日は急激に短くなり、帰宅する時間が毎日早まってゆく。誰も薄暗くなり始めると家に帰った。

お腹がペコペコで、家に帰ると、偶々母がツバ釜で炊いたご飯を櫃に移しているときが有る。そんな時は、釜の底に着いたお焦げご飯の白い方に味噌を塗って丸めて、つまり蒲鉾状にしたのを手渡しで貰って食べた。縁側に坐って足をブラブラさせながら食べた。この上もなく美味しかった。

室内で1人ゲームをしながら、ポテトチップスを食べてコーラを飲む、と言うのは当時全く知られていなかったけれども、今はきっとそう言う時代なのだろう。

自分は外で遊び回って、味噌塗りお焦げご飯を食べて、その日に有ったことを母や父に話して聞かせた時代を経験したことを、幸運だったと思う。

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2008年12月26日 (金)

浦島太郎(3)

太郎は竜宮城から村に帰ってきた。村では200~300年が経っていた。有るべき所に自分の家は無かった。老母も居なかった。話も通じない。何故かは理解が出来なかった。玉手箱に救いを求めた。砂浜に坐って紐を解いて玉手箱を開けた。白い煙が立ち上った。饐えた匂いがした。転落感が有り目眩がした。遠い距離を移動した気がした。

煙が消えたら、太郎は爺になり、その瞬間に惚けてしまった。悩みは無くなったけれど、自分の事が分からなくなった。そうしてそれから間もなく亡くなったとさ。

一般的今浦島は駐在員に比較的多いように感ずるけれど、可成りの量で何処にでもいる。誰でも目の前の現実を自分の基準で理解するのだけれど、理解と現実が合わなくても、知識や経験で理解を変更しない。なので益々理解が現実から遠ざかる。

連日報道していて警告にも毎日接しているのに、詐欺に引っ掛かりお金を振り込むのは、物事を社会の規則に従って解決しないで金で解決しようとする人だったり、欲ボケで社会的通念から逸脱しているのに自分だけはと思っている人だったりするのかなあと、同情したり憐憫を感じていたのだけれど、もしかしたらそう言う人達は拝金主義者でも無知蒙昧な訳でもなく単なる今浦島なのかも知れない。これはもう出現率がきっと決まっていて極端な増加もないのだろうけれど、劇的な減少もなく、長い期間を以て地道に対策してもそれ程の効果は無いのかも知れない。一種の遺伝子なのだろう。そこに玉手箱は無い。

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2008年12月22日 (月)

ハグラウリの食べ方

千葉に行くと必ず、ハグラウリを食べる。スーパーで漬物コーナーに行ってハグラウリの鉄砲漬けを探す。感じの良いのが有るとご購入!で籠に入れる。

農家直販店で生の瓜を買って、自分で漬物にする事も有る。午後に買って夕方に漬ければ夕食の時に食べられる。1個全部漬ければ、滞在中ずっと食べられる。スープや炒め物でも普通に食べられるが、漬物が一番気に入っている。単なる塩漬けは今一だけれど、トウガラシやオオバを入れると美味しい。バジルやミントで味付けしても乙かも知れない。

数年前に苗を一本買って菜園に植えた。23週間したら相当伸びていた。それから1ヶ月後に行ったら、20cmぐらいの食べ頃の物と40cm位の巨大化したのが生っていた。地べたにゴロンとしているのを見たときには、冬瓜と思ったぐらいだ。大きい方は皮が少し固かったが、普通に食べられた、但し、飽きた。今度千切りにしてサラダ、刺身のツマ、酢の物で試してみよう。ソムタム風も良いかも知れない。

来年は時期に苗を見つけて買って植えるぞ。適宜食べて、1個は究極の大きさを確認したい、最後の色も確認したい。

ハグラウリは外房と茨木には何処にでも有るようだが、他では殆ど見かけた事が無い。多用途の野菜だし、栽培も簡単そうだからもっと普及しても良さそうなのに、ちょっと不思議な感じがする。

でもまあきっと、これは広い意味でキュウリの仲間だから、それぞれ好みのキュウリがその地方に有って、地元の人に愛されて居るのだろう。それはそれで結構な気がする。これも1つの道で、アンチグローバリゼイションの小さな実践のようで嬉しい気がする。

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2008年12月18日 (木)

浦島太郎(2)

太郎は、大きくなった助けた亀に連れられて竜宮城に行った。見たことも聞いたこともないご馳走、歌や踊りの演芸、夜は夜でのもてなし。非日常的なことで楽しいと思うのは最初だけ、暫く経つと、村が恋しくなって、老母の事も心配になって帰ることにした。竜宮城の主、乙姫様から玉手箱を貰って、連れてきてくれた亀の背に乗って、自分の村へ。

昔ノーキョー、今学生と定年退職者、かどうかは不明だけれど、昔はノーキョーの海外旅行団が大活躍したらしい。世界中至る所の観光地、夜の歓楽街に数十人から数百人の団体が闊歩した。或るホテル何ぞは、夕方その手の女性がそれこそ何十人、何百人とロビーに溢れ、壮観だったらしい。勿論一般の宿泊者はギョッとした。本当か嘘かは知らないが、ステテコや浴衣でスリッパを突っかけてダイニングに大挙して参集した。同伴の方もいた。一遍お仲間に入れて頂きたい気もするし、誘っていただいても気後れがする気もする。

昼はバスを連ねて観光地を巡る。金歯銀歯を輝かせてガハガハと笑い腹巻きから紐で繋がった財布を出して、ポケットから計算機を出して、計算しながら色々なものを買う。添乗員さんこれ送っといて、見たいな、軽いノリ。

非日常的な食べ物、買い物しまくり、メチャクチャもてる。勿論お金の力。楽しくて仕方が無い。それでも数日して帰路に付き、帰りの飛行機に乗る頃には少ししおらしくなり、日本の空港に着く頃には大人しくなって、地元に着く頃にはすっかり普段のオジサンに成ってしまう。夢の様な世界から現実の生活に舞い戻る。

太郎は夢の様な世界から、自分が存在しない村に戻った。

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2008年12月16日 (火)

ニガウリの食べ方

学生の時、夏休みに1人フラフラ旅に出た。泊まった民宿で瓜の漬物が出た。持ってきたオバサンが、『こちらの食べ物でちょっと苦いかも』みたいなことを言った。実際食べると、メチャクチャ苦かった。『平気ですから』と言った手前、全部食べたけれど、こんな物を恒常的に食べているって、味覚が狂って居ると思った。

後年沖縄に行って、ニガウリを何回か食べている内に平気になった。暫く食べていないと、フッと思い出す野菜の1つ。トウフ、卵入りのゴーヤチャンプルは、好物である。

以前住んでいた借家には小さな畑が有った。ニガウリを植えた。沢山生った。夜蛾が受粉を行っているようだった。花に悪臭ではないが特徴的な匂いが有った。ドンドン蔓が伸びて、花芽が着いて、実が大きくなり始めると、たちまち大きくなる。取っては食べ取っては食べた。時々忘れると、濃い緑色が薄くなって行き、黄色っぽくなり、オレンジになり赤くなって4裂ぐらいしてタネがむき出しになる、それが地面に落ちて翌年、勝手に芽が出て来て又実を付ける。良い野菜だ。

食べたことは無いが、むき出しに成ったタネを包むちょっとネバネバしたところは甘みが有るようだ。鳥が食べて遠くにタネを運んで貰う可能性が高まるのだろう。

盛夏が終わり、暑さも緩むとボチボチニガウリも飽きてきて、もぐ回数が減る。実は熟して赤化して弾ける。薄い緑の葉の中に黄色、オレンジ、赤の実が生って居るのは美しい光景だ。昼下がり畳に寝転んで濡れ縁越しに、蝉の音を聞きながら、ニガウリの網棚を見るのは、南国で休暇を愉しんでいるようで、心が安まる。

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2008年12月10日 (水)

浦島太郎(1)

1000年ぐらい前、分かりやすく言えば、平安時代中期、日本に天然痘が大流行した。貿易で海外からもたらされたと思われる。たくさんの人が、勿論高貴な方も、そうでない方も、或る意味平等に罹って死んだ。当時人口は多分約600万人、勿論日本全体で。今の20分の1以下。藤原氏全盛時代。そんな位前のある時、そんなに分かりやすくもないか。

丹後の国の或る海岸で、1人の若い漁師が歩いていた。漁師の割には色白。小柄でひ弱そうだった。その人の名は浦島太郎。

子供達が一塊になって、何かしていた。興奮した様子や切れ切れに聞こえる声から、何かをかまっているらしい。近づいてみると子供達がウミガメを苛めていた。太郎がやめるように言っても子供達は、彼を一瞥しただけで、止めようとはしなかった。太郎が懐から財布を出して、一文ずつ与えたら、囃し立てながら子供達は走り去った。

この亀は命拾いをした。太郎が通りかからなかったら子供達になぶり殺しにされただろう。子供達は頭に血が上っており、それぞれお互いに刺激されて、又亀が苦しむのを見て益々エスカレートして殺してしまっただろう。

子供の頃、カブトムシやゾウムシで遊んだ。引っ張り合いをさせた。小さな土俵で相撲を取らせた。負けた方に罰を下し、足を一本むしり取った。2回負けたのは2本むしり取った。段々エスカレートして首を捻った。半回転させると首が取れた。みんな喜んだ。ゾウムシを並んで歩かせて、遠くから石をぶつけて当たると喜んだ、そんな経験あなたに有りませんか?

相手が亀や昆虫だったら、まあどうって事もないが、相手が人間でも、強い権力を与えられた集団と無力な集団が、狭い空間に長い間一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走する。元々の性格とは関係なく発生して仕舞うところが恐ろしい。

イラクで捕虜を虐待した兵士も数ヶ月前までは善良な在り来りの一般市民だった。それを防ぐのは強い自覚なのか、「宗教」なのか自分にはよく分からないが。或る種の深い知識が無ければならないと思う。

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2008年12月 4日 (木)

ハヤトウリの食べ方

世の中に有ることは相当前から知っていた。地方の六斉市や軒先販売に有るのを見ていた。美味しそうじゃないし、食べ方知らないし。手に取ってみるとズッシリ重い。白っぽい物と黄緑色の物が有る。白っぽい方がやや大粒の気がする。

調べてみたら、一本の蔓で100個以上生る、偉い物だ。日本には最初に鹿児島に渡って来たので隼人の瓜でハヤトウリ、全然信じられないけれど。

数年前に職場で知り合ったオジサンに貰った。お勧めに従ってみそ漬けにして食べた。美味しい、方だと思う。ハヤトウリ自体に殆ど味は無い、味噌の味とパリパリとした歯触りが良い。炒めて食べても美味しい。やはり特に味はない。他の物を引き立てる増量剤の様な感じがするが、シャキシャキした歯触りが良い。スープの具にした。他に入れた物は豚肉と調味料だけ。特に味は無いが美味しい。他の瓜類と同じく、半透明で柔らかくなる。

その年は何回もそのオジサンから貰って食べた。冬の内幾つかは芽が出たので育てた。蔓が伸びて面白がっていたら、ちょっと旅行している内に寒さで死んでしまった。

いつも貰って食べている。たくさん生るから家庭菜園に向いているらしい。今年も2箇所から貰った。一方は白っぽい大きいの、片方は黄緑色のやや小振りの。最近道の駅とか直売所とかでよく見かけるが買ったことは一度もない。

ハヤトウリは今のところ貰って食べる物。何かちょっと寂しい。

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2008年12月 2日 (火)

ゴミの捨て方

カラハリ砂漠の上空を飛んでいた小型飛行機のパイロットが飲み終わったコ○・コーラのビンを外に捨てた。空き瓶はゴミだろうけれど、拾ったブッシュマンには「便利な道具」、これで争いが起きた。ニカウさんは、集落を代表して旅立ち、ビンを地の果てに捨てた。

昔のことは良く覚えていないが、きっと自分がガキの頃は、捨てるゴミが有れば何処へでも捨てていたんだろうなあと思う。今と違って、ペットボトルの飲物もないし、缶コーラもなかったから捨てなかっただけだ。裏山に遊びに行くときに手ぶらが多かったけれど、せいぜい持って行ったのは、リンゴかトウモロコシぐらい。食べた後芯をそこら辺にポイしたと思う。喉が渇くこともあったが、飲める水の場所は知っていたから、その湧き水を飲んだ。水筒を持って歩いた記憶はない。

貝塚って多分縄文時代の人のゴミ捨て場、怪我したり不衛生に成ったりしないように、集落の外れに捨てていたのだろう。再現の集落に行っても便所はないけれど、きっと便所だって有ったに違いない。靴を履いていて犬の糞を踏んづけたって相当気分が悪いのに、裸足で他人の糞を踏んづけたら幾ら昔の人が寛大でも不愉快だったろう。経験的に病気の原因に成ることが有るのも知っていただろう。

他人のマンションやコンビニのゴミ箱に生ゴミを捨てる人や、ポストの上や、自転車の籠に缶コーヒーの空き缶を捨てる人は、自分にとって村の外れに捨てているつもり。そんな人は狭い自分の村にしか興味がない。そう言うのを見ると平均点が下がった気がして気分が悪い。『之を道くに徳を以てし、之を斉ふるに礼を以てする』のは相当困難だろうから、捨てた人は罰として道路や公園のゴミ拾い。

その内高濃度核廃棄物を他国に捨てる輩が出るだろう。高濃度核廃棄物をこっそり捨てる場所を提供して貰って、各種援助をすると言う形式だろうけれど。その祖国を売った高官はタップリ金を持って、家族で高濃度核廃棄物を出した国に移住。捨てた方は人類の生存に対して挑戦。どちらも罰として地獄の業火でBBQってとこかな。

自分も無自覚で、強者側に立っているかも知れないから、少しは考えて見ようと思う。

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