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2009年12月27日 (日)

見え方(20)、0.5パチ

この間、有る駅前を通過したら「0.5パチ」という看板を見付けた。自分は直ぐその意味が分かったけれど、知らない人は意味が全く分からないだろうと思う。そもそもそんな看板に目が行くことも無いと思う。

全くご存知無い人のために、少しだけ解説すると、パチンコで遊ぶには、玉を借りなければ成らない。通常14円だが、そこはコーナーによって150銭で貸し出す。と言う意味だ。通常は等価交換ではないので、勝ったら玉を戻すときに140銭ぐらいで、多分引き取ってくれるのだろう。

全く知らない人は安くて良いだろうと思うかも知れないが、ちょっと暇潰し以外は、きっと怠くてやっていられないと思う。

パチンコパーラーも暇で、あの手この手で多種の客層を呼び込もうとして必死なのだろう。順手か逆手かは知らないが、店の数は散歩していて見る限り減っている。

一頃天気が良ければ釣りか散歩で、雨が降ればパチンコみたいな感じだったが、もうずっと行ったことがない。最近は雨が降ったら家で寝ている。天気が良ければ、岩盤浴で寝ていたりする。

テレビに新台の宣伝があり、それはメーカーの物で、深夜のローカル放送で、地元のパチンコパーラーが宣伝を流していた昔とは様変わりしている。こう言うのもパラダイムシフトと言うのだろうか。そんな訳は無いか。偶々自分はパチンコの事を少し知っていたので、「0.5パチ」の意味が分かったけれど、世の中には知識が無くて、意味が分からないことや、目が行かないことが、タップリ有るんだろうなあ。

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2009年12月25日 (金)

見え方(19)、電車のマンガ

十数年前頃までか、この不景気になる前のバブル崩壊前後までか、よく覚えていないが、電車の中に、マンガを見ていた大人が沢山居た。通勤電車で如何にも会社に向かう格好の人達が沢山少年用らしいマンガを熱心に見ていた。ちょっと怪しげ系のマンガ雑誌を見ていた人達も居た。今は殆ど絶滅している。

話はちょっと逸れるが、出版社系や新聞社系のややまとも風の週刊誌を読んでいる人も、とっても少なく成った。各種趣味の雑誌を読んでいる人も少なくなった。本屋に行けば、各種雑誌が陳列はされているから、未だかなり生き残っている風だけれど、縦積みされている雑誌は少ないから、余り売れていないのだろう。気の毒なことだ。

少年用のマンガを見ていた大人は、中年老年に成ってしまったのは確かだけれど、それが理由で電車の中から払底したのではないだろう。何時も後継者はいる物だから。と言うことはそのころマンガを読んでいた世代と同じ今の連中は何をしているか。もしかしたら携帯電話やゲーム機でゲームをしている人達やパズルをしている人達がその後継者かも知れない。

自分から見たら、とっても時間が勿体ない気がするけれど。普通の本を読めば少しは足しになると思うがなあ。買う金が無くとも何処の町だって図書館が有って、只で貸してくれる。

そんな関係からか、繁華街の有る駅に降りても、駅前の路上で週刊マンガを100円で売って居る人を最近は見かけない。ゴミ箱から売れるマンガを拾って行く人も見かけない。読んでいる人が居ないから、ゴミ箱の中にも無いのだろうけれど。あの商売は元手要らずの商売で、ああ言う人達に取っては、競争はそれなりに厳しかっただろうけれど、拾って直ぐ現金に成って、まあまあ美味しい稼ぎだっただろうに。

電車のマンガはもう復活しないかも知れない。

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2009年12月21日 (月)

見え方(18)、バスの朝食

朝の通勤バスで、朝食と見えるパンやらおにぎりやらを食べている人達が、数人いる。殆ど女性。バス内が混んでいるわけではないから、2人掛けの座席の隣の人が食事中と言うことはないけれど。隣でパンを食べている人が居ると、落ち着かない気がする。

バスから降りて多分数分の所に職場が有るようなそんな感じ。ご苦労様な事だ。食後化粧をする人もいるし、寝る人もいる。皆さん器用と言えば器用。生活習慣の違いだから、良いとか悪いとかの問題ではないと思う。アルバイト掛け持ちして、寝る暇もないのかも知れない。そうだったら気の毒なことだ。そう言う人がどう言う生活パターンに有るのか、つぶさに観察したい気もするが、実際は大したこともなく、詰まらない気もする。

自分は家を出る前に朝食を食べる。10分程度早く起きるだけだし、アルバイトを掛け持ちしているわけでもないし。食べるも物に大差はないが、食べる場所には大差が有る。テレビでは遅く起きた人が、学校やら職場へ行く格好で朝の食卓に出て来て、時間がないとか言って、コーヒーを立ちながら一口二口飲んで、腕時計を見て、「もう時間が無い」とか叫んで、トーストを銜えながら、ドタバタ出掛ける。そう言う家の中を見たことはないが、そんな感じで家から飛び出し来た人を、見たこともない。

バスの中で朝食を食べている人達は、もしかしたら電車バスに間に合う時間ギリギリまで寝ていて、家を飛び出して、途中のコンビニで朝食を買って、バスの中でそれを食べて職場に向かう。自分にはとっても出来ない芸当だ。最初そう言う人達を見たときは、朝食ぐらい、家で食べて来い、化粧ぐらい家で済ましてこい、ぐらいに思っていたが、時間を有効に使うにはあれぐらいの創意と工夫が必要な気がしてくる。賢を見れば斉しからんことを思い、不賢を見れば内に自ら省みるなり、どっちなんだろうか。

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2009年12月17日 (木)

見え方(17)、バスの座席

通勤では比較的マイナーなバス路線を使っている。休みの日にJRと並行して走る私鉄の最寄り駅に行くときにもバスを使う。

全ての座席に人が座っていて、何人かが立っているのは仕方がない。ドンドン乗ってきて、混雑するのも仕方がない。或るルートで駅に向かうバスでは2人掛けに殆ど1人しか座っていないのに、立っている人が大勢いると言うことが良くある。何か落ち着かない。そんなに長い時間乗る訳じゃないので。坐っている人も座席の端に詰めて荷物を膝にと言うのが面倒くさいし、立っている人もそれをして貰うのが面倒くさいし、と言うことでそんな事に成るのだろうけれど。落ち着かない。

きっと座っている人が、奥にピッタリ座って、もう一人の人が座れる広さを確保しておけば、座る人は多いと思う。どうせ座らないし、自分も楽に座っている方が良いしと言うのは、配慮が足らない気がする。

自分は人を掻き分けて、空いた座席に座りに行くと言うことはしないけれど、近くに空座席が有れば座らせて貰う。混んでいれば勿論立っているが、本を取り出して読んだりはしない。動いて読みにくいからと言うことではなく。しっかり掴まれないから。

多分事故が起きたときに、座っているのと立っているのとでは、被害が相当違うと思う。立っているのも両手でしっかり掴まって居るのと軽く吊り輪を持っているのでは相当違うだろうと思う。

皆さんもっと安全にバスに乗りましょう。バスの運転手は上手いし安全運転だけれど、突拍子もない運転をする人、歩行者、自転車がバスの進路を妨げて事故に成る事って案外多いのではないかと疑っている。バスが事故に巻き込まれて、重傷者23名、大部分は軽傷か無事というのは、想像してみれば、座席に座っているか、しっかりつり革に掴まって居る人達と、そうじゃない人達とで別れたのじゃ無かろうか。

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2009年12月15日 (火)

見え方(16)、手荷物

今度、機内に持ち込める手荷物の大きさを今より厳密にするらしい。昔、国内便では搭乗口に向かうゲートの前で、検査して大きな荷物はチェックインして貰っていた気がするが、今はどうなのだろうか。

小さな女性が大きな鞄を機内に引っぱって持ってきて、自分の背が届かなくて、尚かつ重くて頭上の荷物入れに入れられなくて、誰かに頼んでいるのを何回か見たことが有る。勿論取り出すときも誰かの助力が居る。預け入れれば済むことだ。目的地に着いてから、ターンテーブルの前で待たなくて良いからご当人にとっては便利だろうけれど。

自分はそんな要領の良い事は出来ない。勿論人の情けに縋るのが嫌だと言う意味ではなく、他人の断れない親切心を当てにして、自分の都合良く事を運ぶ要領の良さは好きになれない。

今度俳句を(都々逸でも何でも)しようと決めて、その道の先生の電話番号を調べて、俳句(都々逸)は何文字ずつですか?と言うような質問をする輩が居るらしい。世も末、と言うほどの事もないが、そう言う人は散々人を苛つかせて、まともな句を一句も作らないで、次の何かに移るんだろうなあ。

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2009年12月 9日 (水)

見え方(15)、接近

通勤の電車は、偶々最寄り駅始発である。各車両十数名が乗る。適当な間隔でパラパラと坐る。次の駅で埋まり空席は無くなる。もし最寄り駅で、入線して直ぐ一車輌数名が乗るときに、隣にピッタリ坐る人が居たら、違和感を覚えるだろう。混雑具合により接近度合いを調整する機能が働いている。おたがいに不快を軽減するためには当然の事だろうと思う。混雑してくれば例え両隣に体の大きな人が居て、かなり圧迫されても、体は窮屈だが、苛つきは感じない、しょうがないと思うだけ。

戻りの電車に乗るときに駅のコンコースから改札が有る方へ向かう時に、偶に改札の当たりで十数名が待ち合わせか、屯しているときが有る。邪魔に成らない方向へ移動すればよいのにと思うが、全く動く気配はない。せせらぎの中に有る大きな石の様に、人の流れをせき止めて、渦を作っているのに談笑して、電話が来たりすれば、床に鞄を置いて、雑談。朝始発の電車で働いた摩擦を少なくする適当な距離観や他者への不快感軽減の心理が集団に成ると機能しなくなるのか、それとも多数を頼んで傲慢に成るのか、邪魔なこと夥しい。

スーパーでもホームセンターでも、通路で見ている人が居る。自分が接近して行くと、カートなり体を移動して、通れる道を空けてくれる人は多いが、無関心な人が増えた気がする。見えない訳じゃない。90度横から接近して居る訳だから、十分に見えている。同じ事が歩道でも起きる。数人が歩道を話ながらゆっくり歩いている。後ろから接近する。直ぐ傍まで近づいて、誰かの視界に入っても彼らは話しも止めないし、道を譲ると言うこともしない。中々追い越せない時がある。意地悪とか自己中ではなく、何も感じていないだけのように思える。こういう物って、教える事でもないし、躾の問題と言うより、自然に学習して身に付く物だと思うけれど、我々は昔より馬鹿に成ってきているのだろうか。自分の事で一杯で、他人を思って何かをする意識が薄らいできているのだろうか。

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2009年12月 3日 (木)

見え方(14)、マスク

それ程寒くないし、通勤の車中で風邪の怪しい人が居ないので、未だマスクをして歩いていない。去年は真冬の2ヶ月余り毎日通勤の時はマスクをしていた。おかげさまで一度も風邪を引かなかったし寒くもなかった。もう少し経ったらマスクをしている人が増えてくるだろうから、又寒くも成るので、マスクをして歩こうと思っている。今でも急の用に足りるように鞄にはマスクを忍ばせている。車中で近くにゴボゴボ咳をするような人が居たら、嫌な顔をせず、遠慮せず、鞄からマスクを出して掛けようと思っている。

東京の冬は乾燥するし埃っぽいので喉を護ると言う意味からマスクをするのは良いことだ。酷い乾燥の時は加湿器も余り役に立たないから、マスクをして寝る。息が苦しくて悪い夢を見るときもあるが、総じて喉の調子が良い。寝ている間に外れて、枕元にしわくちゃになって居ることも多いけれど。

今は幾つかのタイプのマスクが有る。伝統的な厚いガーゼのマスクをしている人は少なくなったが、その乗りで、ククロビンマスク(成形一体型)や三段腹マスク(長方形で襞々)を掛けている人が散見される。ちゃんと使用説明書を読んだ方がよい。鼻の辺りや顎の辺りが、目茶苦茶通気が良くなっていて、効果ゼロでは無いだろうけれど、著しく減じて居る。もしかしたら、1回の使い捨てではなく、繰り返し使って、風邪を呼び込んでいる人が居るかも知れない。謙虚に取説は読んだらいいと思う。そんな事は無いのだろうが、三段腹マスクの鼻の所を折って成形しないでそのままスカスカで掛けている人を見れば、いい加減な性格だけれど、予防はしたい、見たいに想像してしまう。

顔を隠していても、怪しまれないからドロボウが増えるかなあ、と心配したり、諸般の事情で顔を隠したい人には、良い季節だ、等と考えたりしている。

それでもマスクは取説を読んで正しく使いましょう。 あ、それから薄い色が付いているとか、薄い花柄が付いているとかは気にならないけれど、口裂け女の口とか猫の口とか書くのは出来れば止めて欲しい。

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2009年12月 1日 (火)

見え方(13)、まつげ

大抵のほ乳類にはまつげが有る。ラクダのまつげは、長いし、ボリュームもある。乾燥地帯や、砂漠に居るから、目にゴミや砂粒が入らないように、あんなカタチに進化したのだろうと思う。暇が有る方は近くの動物園に行って見たらよい。あの悪そうな性格(?)高慢そうな顔からは想像も付かない良いまつげだ。放し飼いにされていて、遠いから観察するには、双眼鏡が有った方が良い。

最近特殊な化粧品、化粧道具が発売されたのか、まつげの化粧が目立つ。綺麗になることは結構なことだ。そこだけが浮いて全体に合わないこともあるだろうが、そんなことを気にする事は無い。数値化できない物の基準なんて物はドンドン変化する物だ。

自分は普段、まつげが付いていることを意識したことはない。自分のまつげが見えることもない。小旅行に出て双眼鏡を使うとき、レンズに目を近づけ過ぎて見えることは有るけれど。

化粧したまつげは、どれぐらいの重量かは、不明だが、従来の重さより、23倍の重さが有るように見える。きっと瞼が相当疲れることだろうと思う。見られることと見られることで自分の気持ちを変化させるためにあんな化粧をしているのだろうけれど、夕方は目が開いているようには見えなくて、長いまつげが目から生えているように見える人が沢山居る。あのまつげの付いた目から世間はどのように見えているのだろうか。藪から透かして先を見ているように見えるのだろうか。

そんな若い女性も、数年すれば、子供の世話で、それどころではなく、化粧もしなくなり、偶に写真を見て、そのころを思い出すが、どうしてそんな化粧をしていたかを、訝しく感じるように成る事も有るのだろう。これしか考えられない、みたいな話だって、少し時間が経てば、 麻疹が治ったような物で、ケロッとしてしまって、何でそんなことをしていたかも思い出せない事って多い。恋しい恋しいナントカさんだって、振られて3ヶ月もすれば、何でもなくなって、冷静に見れば在り来りの人であり、美人(イケメン)でも何でもなく、地味なありふれた顔で有ることに気が付く。それが良いか悪いかは別として。

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