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2010年2月28日 (日)

神のかけら

人によっては、神のかけらが、含まれている。芥子粒のような人もいるし、比較的大きく梅干しの種ぐらいのが含まれている時もある。中には間違って胆石に成ってしまう不幸なことをする場合もある(笑い)

大部分の人は自分に神のかけらが含まれている事を知らないで、一生を過ごす。ごく稀に自分の中に特異な才能が有ることに気付く人が居る。それを伸ばせば、時として大飛躍することがある。努力する才能が賦与されている。時の運もその神のかけらが引き寄せる。さしずめオリンピックのフィギュアーで断トツの金を取る人は、大きめの神のかけらが含まれているのだろう。

誰も神のかけらの為せるわざとは知らないから、特に問題はない。因って大抵の場合、その才能は遺伝しないから、実業家や研究者、運動家の息子や娘は努力が足りないだの、馬鹿だの言われて、散々な目に遭う場合が有る。中にはぐれたり、落ち溢れたりする人も現れる。誠に気の毒な事だ。本人は普通なのだけれど、なんせ親の方には神のかけらが含まれていた物だから。

逆の場合は、まあ出藍の誉れで、結構なことで。

アレキサンダー大王だのヒトラー総統だのは、とりわけ大きなかけらが含まれていたのだろうけれど、結果は色々だ。

神のかけらは、その当人が死んでそこら辺に漂って居る場合も有る。新たな人間に含まれる場合も有る。何かの動物に含まれる場合もある。何処にどう行くかは如何ともし難い。今自分に含まれているかどうかをじっくり観察実験していても特段損をする事は無い。でもまあ大抵の人には含まれて居ないだろうし、有っても芥子粒ほどだろう。期待に反して馬鹿のかけらが含まれていることもある。どちらにしろ、それらと上手く付き合った方が良い。

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2010年2月26日 (金)

箱根駅伝

濃密な関係者以外はもう旧聞に属する話だけれど、と言うよりも旧聞なので、ちょっと安心して、箱根駅伝の事。

いつも正月は両日テレビで見ている。偶に外出していてラジオを聞いていることもあるが、正月の番組では贔屓にして居る1つだ。

復路ゴールの大手町読売新聞社直前で、10位前後のチームが45チーム有り、10位以内になったチーム、選手はこれから1年バラ色、とまでは行かなくても、これからの1年が開けて力漲り、もし祝杯を挙げるなら、苦労話が多くとも、明るく未来に満ちた話で盛り上がるだろう。

シード落ちしたチーム、選手は、どんな気持ちなのだろう、考えると胸が痛くなる。特に目前まで10位以内で、ゴール直前で11位以下に落ちるチーム、選手の気持ちや如何。

シード落ちしたチームは10月に昭和記念公園で開かれる選考会に参加する。それまで競技に参加しながら、練習をする。長い10ヶ月が始まる。予選会の前には、中央線立川駅のコンコースに選考会参加の大学の旗が翻る。

選考会当日会場は関係者で繁忙を極めるが、見物客も多数押し寄せる。一般の道路も走るので、バスのルートが変更される。箱根駅伝参加を賭けてチーム、選手が、走る、走る。

選考会でも本大会でも一般の人達が多数観覧して居る。OBの人達はもっと熱心に観覧しているだろう。選手、関係者。皆さん必死、順位、シード、個人、学校の名誉、失敗、挫折。話は単純で、現代的なオブラートに包まれていない。参加資格は関東学生陸上競技連盟、略称関東学連の構成校のみ。

自分もあの力走を見ているとつい力が入る。箱根駅伝は面白い。

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2010年2月22日 (月)

20%削減中

--承前--

南洋の珊瑚礁の島々が、国土を失いつつあるのに、二酸化炭素を大量に発生している国々が、彼らの生存を援助する具体的な提案をしていると言う話を聞いていない。

見返りのある『援助』はするが、二酸化炭素が温暖化の直接的甚大な理由かどうかは知らないが、自国は削減したくない大国がウダウダ議論している間に、南洋の島々は大洋の波濤に飲まれそうだ。

長期展望、計画も必要だけれど、目前の困難な人々を助けて生きる勇気を与える事も少しは考えた方が良かろうと思う。ツバルだのマーシャルだのはもう10年もすれば、まともに住めるところでは無くなるんじゃ無かろうか。水だけに着目すれば、話は真逆で水が多すぎるが、ツバルだのマーシャルだのは、地球温暖化は正に荘子の轍鮒の急。

--終わり--

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2010年2月18日 (木)

20%削減中

--承前--

人間による二酸化炭素の発生と自然での消費が、均衡するには、どれぐらい発生量を削減し、吸収する森林などをどれぐらい増やせば良いのだろう。そもそも出来ることなのだろうか。ハチドリが山火事の時に、みんなが馬鹿にしても、クチバシに水を含んで火に掛けて、『自分に出来ることはこれだけだから』というのは美しいけれど、人間ならもう少し実効の有るやり方が有るような気がする。電力会社が、エコな生活のために、エネルギー消費を少なくみたいな宣伝をしているが、自分の事業と背反するようで今一素直に納得できない、縮小均衡させようと思っている節もないし。

本で、長い恐竜時代は今より大気中の二酸化炭素濃度が何倍も濃かった、と言うのを見たことが有る。その時の地球は植物も動物も大発展していた。

何かの理由で、人知を越え人間の活動を越え、二酸化炭素の大気中における率が変動しているのなら、全くお門違いなことをしているのかも知れない。

二酸化炭素の発生を削減することも大事かも知れないが、もしかしたら増加しても人類が生きて行ける方法も考えた方がいい気がする。個人的にはちょっとした温暖化は良いような気もするけれど。砂漠には費用を掛けて水を遣り、穀物蔬菜果樹を育て、寒冷地は温暖化して、緑の穀倉地帯も有りの気がする。

--続く--

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2010年2月16日 (火)

20%削減中

街中に『当車はCO2を20%削減中です』というステッカーを貼った車を見かける。最初に見たときは意味が分からなかった。あの箱形の荷台の中に、二酸化炭素を削減する機械が入っているのだろうか、と言うのは冗談で。

何処から20%削減しているのだろう?要するに、今排出して良い最大限の数値より、20%下回った分量しか発生していません、と言う意味なのだ。別の見方をすれば『当車はCO280%発生中です』みたいな物だ。ちょっとあざとい気もするが、努力しているのだから良しとしましょう。

そもそも削減という言い方は余り正しくない気がする。このままだとドンドン増加して行くので、発生する水準を下げてゆきましょう。今が100発生しているのなら、例えば10年後には50にしましょうと言うこと。それで環境の諸問題が解決するのかどうかは知らないが、増加するスピードが減じるだけで、絶対量は増加はして行くわけだから、何かまやかしの様な気もする。それで時間を稼いでいる間に、二酸化炭素を吸収する森林や農地を増やすとか、空気中の二酸化炭素を捕まえて、地中深くに閉じこめるかしたら、大気中の濃度が下がるだろうけれど。

--続く--

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2010年2月10日 (水)

毛糸の帽子の男

ついこの間、遭遇した出来事。

駅へのアーケードの中ごろに、床屋が有る。本当はヘアーサロンとかヘアーメイクとでも言うのかも知れない。椅子が10脚ほど有って、店内がとても明るくややゆったりと作られている。自分なんかは、恐くてとっても入る勇気はない。色々どうするか、ああするか聞かれても、答えようも無いし、どう言うイメージで、と言われても何にも浮かばない。それに料金体系が複雑そうだし、結果高そうだし。大体スタイリスト、トップスタイリスト、ディレクター、クリエイティブディレクターとかが有って、それで料金が何倍も違うのは、益々恐ろしい。それより何より、そんなに多様なニーズのある髪の毛の量じゃない。

自分にも行きつけの床屋が有る。一応聞かれるから最低限答えるけれど、本当は一言「二ヶ月前と同じにして」(勿論髪の毛を増やせとか、白髪を減らせとか、と言う意味ではなく、髪型、髪の長さ)か「いつも通り」。

そのヘアーサロンの前に時々チラシを配っている人が居る。誰彼構わず配っている。自分にも配る。その日もそうだった。やや小柄な普通の身なりの毛糸の帽子を被ったオジサンに配った。

「あんた、俺をからかって居るのか」配った本人は、一瞬たじろいだ。

「俺にどうしろって言うつもりだ」配った本人は、困った顔をしているが沈黙。

「俺をオチョクッテ居るのか」配った本人は、とんでもないと言う顔。

「俺にこんなチラシは要らないんだよ」内容の割りには、剣呑な感じはしない。ちょっと聞こし召してはいるだろうが、危険の匂いはしない。

「伊達や酔狂でこんな毛糸の帽子を被って居るんじゃねえ、あんたらと違って、寒くてたまんねんだよ、見せてやらあ」と言ったかと思うと、毛糸の帽子を片手でサッと取った。未だ40代半ばの感じだったが、ツルッパゲ、お見事。

確かにヘアーサロンはご無用の方だった。思わず笑いそうに成ったが、静かに通り過ぎた。あの人はきっと、自宅に帰ってから奥さんにその芝居がかった話を聞かせてやるのだろう、確かあの人は市役所に勤めていて、謹厳で慇懃だった。

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2010年2月 4日 (木)

少年と鮒取り

高校生の時、近隣の小学生3人を連れて鮒取りに行った。

数日前に雨が降った。前日散歩に行った帰りに、用水の横溢分を川に流す堰の下の水溜めに鮒の姿を確認していた。

土曜日の午後、フラッと外に出たら、近所の小学生が3人、近くの空き地で遊んでいた。内2人は兄弟。声を掛けると、取りに行きたいという。3人がそれぞれバケツを取りに家に帰った。自分は彼らがバケツを取りに行っている間に、家から叉手網を持って長靴に履き替えて空き地に戻った。

1キロ位の距離を3人は何やら話ながら、自分は黙って歩いた。田圃の中の2メートル位の道。真ん中は土が剥き出しで、外側に行くほど草が多く、両側にある小さな用水際は長い草。一団が進むとカエルが小さな用水に逃げ込む。

里山の縁についてそこからは里山を巻くように流れる用水の土手を歩いた。最後に小さなやや急な坂を下って、水溜めに着いた。数メートル四方で一番深いところでも50センチ位。前日より鮒が増えている感じがした。上には木が覆い被さって、やや暗く水の中は一部しか見えない。

水の吐き出し口の一段高いところから、掬い始めた。20センチ前後の鮒が数匹ずつ取れる。その度に、大中小を1人ずつずらして、それぞれのバケツに入れてやる。少年達は大喜び。水溜めの奥に逃げた鮒を取るために、自分は長靴を脱いで、ズボンをたくし上げて、未だ冷たい水に入って鮒を取る。少年達は益々興奮して、大騒ぎ、目がランランと輝いていた。それぞれに鮒十数匹とクチボソ、タナゴなどが配給された。取り終わってから、バケツから飛び跳ねないように立ち枯れた蘆を適当に折って、バケツの上に浮かべた。魚が一杯の重いバケツを少年達は何回も持ち手を替えて、時には地面に少し置いて休みながら、意気揚々と来た道を帰った。

もう何十年も昔の話だ。数年前に所用で帰省したときに、そこら辺を散歩したら、里山は荒れていたが、同じ様な地形で、用水は未だ、当時と同じように見えた。自分の少年時代の事が幾つか思い出された。

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2010年2月 2日 (火)

見え方(22)、運不運

運不運と言うほど大袈裟なことではないが、この間ちょっと感じたことなど。

その日は珍しくちょっと早く家を出て、仕事場に向かった。駅について、ホームに登ってゆくと丁度良い感じで電車が来た。「ラッキー」。何時もとは違う号車に乗った。目的地の駅に着いた。何時もと違う場所、前と後ろに階段が有り、近い方にちょっと向かったが、全体的には遠くなる気がして、戻って遠い方の階段を上がった。駅の中央通路を歩いて、階段を下りて、バス停に向かった。バスが止まっていた。「ラッキー」、それも束の間、階段の途中でバスが出発した。「アンラッキー、さっきモザイク行動を取らなければ、きっと間に合っていた、不覚」。

バス停について間もなく次のバスが来た。「ラッキー」。もしホームでのモザイク行動がもう少し長引いて、前のバスが出発した後で、バス停への階段を降りている時に、実際に乗ったバスが来ていたら、電車もバスも、「ラッキー」と思ったに違いない。

東南アジアの片田舎の未だ電気が通じていない地域に行ったことがある。延々と畑や田圃、赤いラテライトの道。小森林が続いて、あちらこちらに小集落。高床式の様な家の土間で子供達が遊んでいる。ラジオから地元っぽい音楽が流れている。大人達は日中の暑気を避けて、暫しの休息、ハンモックに寝そべっている人が居る。縁台に寝転んでいる人がいる。土間に筵を敷いて車座になり、お喋りをしながら、手仕事をしている人達が居る。そこに暮らすのはラッキー?アンラッキー?

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