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2012年3月31日 (土)

アンケート(1)

住んでいる市を通して、「~~における市民意識調査」なるアンケートが来た。内容が面白かったので、直ぐ記入して返送した。或る大学からの調査なので今後の教育研究に少しは役立つのだろうと、期待している。

このちょっと前に来たアンケートは、回答に500円のプリペイドカードの景品付きだったが、何か面白くなかったし、面倒くさい気がして回答しなかった。

調査地域、調査数等が記されていないのでどれぐらいの率で選択されているか分からないが、当たる確率は何となくかなり低い気がする。アンケートを実施するときは、そう言う調査諸元も合わせて知らせて貰いたい物だ。

今回のアンケートの設問は時宜に敵っていて、中々興味深かったし、市のことに詳しかった、設問者は市内在住かも知れない。残念ながら、自分にとっては、回答の選択肢は少し不足している感じがした。

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2012年3月25日 (日)

北京原人の在庫(3)

ある時、神様が友達とポーカーをしていた。(神様の友達って誰?今は深く考えない)いつも神様は鴨にされているのだが、その日は絶好調で、勝ちまくり。日頃の鬱憤を晴らそうと、時間になっても止めないで、ポーカーを続けていた。助手が声を掛けて、(神様の助手って誰?神様の助手!)「神様、もうそろそろ、物部の倅を生まれさせる時間ですよ。早く準備してください。」「もう少し待ってくれ」「今日も負けているんでしょう?いい加減止めたら如何ですか」「何を言っている、今日は勝っている」「へー、そうなんですか、そんなことも有るんですか、いやいや。そんな事はどうでも良いんです。もう物部の倅を生まれさせなければならない時間なんです」(助手、独白:もう少しで神様の手に乗るところだった)「もうチョイ待ってくれ」「駄目です、もう時間ですから」「もう少しだけ」そんなこんなで時間が経って、「神様、お願いですから、物部の倅を準備してください」ここで神様閃いて、本当はちゃんと物部の倅を準備しなければならなかったのだが、昔沢山作ったのだけれど、世に出す前に滅びてしまった北京原人の在庫が沢山あるので、それに手を伸ばして、なんせ神様だから遠くだって手を伸ばせば届く、1つ掴んで助手に渡した。「是使っておいて」(助手:時々こんな事をするんだから、本当に、もう神様ったら)と言うことで、物部の倅には昔の北京原人の在庫を使った。

現代人の体を通り抜けてくるので、北京原人そのままではないが、その面影を色濃く残した人が時々現代に生まれて来るのはこういう訳。その内の1人が俺。

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2012年3月23日 (金)

北京原人の在庫(2)

全体的には、俺はインパクトが強いので、多分名前は忘れられても、あの北京原人と言っていた奴とか、がっちりした奴とか、あのマッチョだよって思い出されていただろうと思う。自分も古い人達の名前は覚えていないけれど、顔の特徴や風体の特徴でその人の話題をする事が有るから。

大抵の人は老人になれば、先祖返りして、類人猿っぽくなるから、長生きして、昔の同級生と一緒になれば、自分だけが突出して居ることも無くなるかも知れない。長い間自分と付き合っていて、今は自分の容貌も自然に自分の一部だと感じている。自分の両親は2人とも、普通の感じと言うよりもやや美男美女だったし、両親の両親達もそれなりで、自分に特に似た人は居なかった。おじさん、おばさんにも特に自分に似ている人は居なかった。何故自分だけが北京原人になってしまったか長い間釈然としない物が有ったが、或る本を読んでいて、啓示のように自分の頭に浮かんだことが有った。それは以下の通り。

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2012年3月19日 (月)

北京原人の在庫(1)

俺の渾名は小中高を通して北京原人だった。さすがに大学に入ってからは外見からの渾名は付かなかったので、北京原人からは卒業。ちょっと他の子よりは顔の凹凸が、ないしは彫りが深いとは思ったけれど、自分自身は北京原人っぽいとは思っていなかった。まあ確かに少し生毛も多かった。

小中学校の時は、その渾名は嫌いだったが、いつもなので慣れて、そんなに気にしなくなってきていた。とても親しい近所の幼なじみはさすがに北京原人とは言わなかった。喧嘩になれば面と向かって言われることも有るが、そんなには意識しない程度であった。高校の時は同じ中学校の人は少なかったから情報は伝わらず、どんな渾名になるか少し興味が有ったが、やっぱり、或る意味期待通り北京原人。

大学の時は、顔の感じよりも体全体の感じがゴッツイので、マッチョの感じではなく、教科書に載っている、北京原人の感じなのだが、遠慮したか、洗練されていたのか、渾名はマッチョ。女の子にはもてる方ではなかったが、嫌われるようなことは無く、まあ普通だったと思う。

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2012年3月15日 (木)

真冬のキュウリ(3)

冬用に芋類や根菜類は縁の下で保存していた。ハクサイなどは新聞紙に包んで、氷らない所に吊り下げて保存していた。その他の野菜は半分土に埋めて、藁で覆って、その上に雪が降って、それを必要に応じて掘り出して食べていた。後は塩蔵品を塩抜きして、乾燥保存した野菜を水で戻して食べた。漬物も大量に作った。山菜の塩蔵品も沢山作った。元はみんな露地物だったもの。時代は変わっちゃったから、単なる郷愁みたいになってしまったが、是からは、そんな知恵が滅びる前に、復活させて利用してゆく時代になるかも知れない。旬の物は美味しい、それらの保存物は向いた方法で上手に出来れば、それはそれで別の美味しさが有る。

余り味の無い痩せたキュウリを真冬に1100円で買って食べるのなんかちょっと改善の余地がある気がする。夏の自然のエネルギーで大量に作った物を、知恵と手間を使って保存して冬に食べれば良い。さもなければ東南アジアや南西アジアから輸入すればよい。工業製品を売るばかりではなく、生産、貯蔵流通など多方面に渉って協力しながら、季節の違う農産物を供給して貰う様にすればよい。多分彼らは喜んで作ってくれると思う。何十年も続ければ、お互いの関係も密接になるし、その地域の人達の生活の向上にも繫がるだろう。

本来ならば地産地消が良いだろうけれど、地域と気候に合った物を補完しながら、国際的に協力して分担する事も1つの選択肢と思う。

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2012年3月13日 (火)

真冬のキュウリ(2)

生産者が努力して市場に出して居るのには感謝している。生産者が努力している割りには、自分も含めて消費者は努力していない気がする。

昔自分が子供の頃、真冬に生鮮のキュウリは無かった、少なくとも自分が育った地域にはなかった。雪国だったし。自分の家では夏に沢山作ったキュウリを塩蔵して、真冬にそれを塩抜きして食べた。色も青かったし漬物みたいに萎びていなかったし味も良かった。時々サラダのような料理で食べた。真冬でも美味しいと思ったし、好きな食べ物だった。キュウリは夏の露地物とそれだけを食べた。ハウスで生産された物は当時は食べたことはなかった。真冬に生鮮のキュウリが、自分の田舎に出回り始めたのは高度成長時代が始まって暫くしてからだと思う。農家が主作物以外の野菜を買って食べるようになってからだと思う。

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2012年3月 7日 (水)

真冬のキュウリ(1)

真冬のキュウリは一本100円、真夏のキュウリは一本30円。外房のキュウリは農家直販のお店で真夏は一本10円。キュウリは好きだからよく食べる。夏のキュウリは味がよい、お八つ代わりに塩や味噌を付けて食べる。煮ても漬物でもよく食べる、酢の物もよく食べる。子供の時からよく食べた。冬のキュウリは彩りのための付け合わせ。

冬のキュウリは暖房費が相当かかっているのだろう。暖かいから格好はそれなりになるが、陽の光やら風やらの力が足りないから夏の様には美味しくは成れない。市場性が有るから生産しているのだろうけれど、味は本来からすれば大部違う。

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2012年3月 1日 (木)

モヤシの食べ方(2)

昔は中華料理屋でレバニラ、野菜炒めなどを食べれば、材料の大部分がモヤシで、それらを余り注文しなかったが、モヤシを好きになった今では、積極的に頼んでいる。味は余りないけれど、歯触りが良く、栄養豊富で、カロリーが少ない。工場で作れるし、太陽光も不要だから、現代人には向いた食品なのだろう。

通常は加熱して食べるから、雑菌の事は特段の心配が無いとは思うけれど、製造過程にしろ保存環境にしろ、悪い菌が付いたら、急速増殖するんだろうと思う。東南アジアでは麺類やその他の付け合わせに生で供される事が結構ある、危ないと思ったことは無いが、それなりの注意はした方が良いと思う。

安くて、入手が簡単で、栄養が有って、自分が比較的好きな食べ物のリストに今までのところ最後に加わったのがモヤシ。参考までにそのリストの三強は牛乳、卵、バナナ。

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