« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »

2013年1月29日 (火)

小笠原旅行記(8)

8.セミの食べ方



父島から母島までは2時間余りの船旅。船は、ははじま丸、500トンぐらいで、おがさわら丸に比べたら、小舟の様に見える。黒潮に逆らって航行する為か、天候は同じように感じたが行きの方はかなり揺れた。和室というのかカーペット敷きの大広間に寝ころんで波の音やらエンジン音やらを聞いていたら、うつらうつらして、呆気なく母島に着いた。港からブラブラ歩いて数分で予約の宿は簡単に見つかった。

母島には3泊した。宿の夕食時間の顔ぶれは、滞在中いつも同じだった。その中に、中年の男性と青年の組が有った。もう1ヶ月ほど滞在している、後2週間ぐらいで仕事が終わり島を離れるとの事。少し本土で休んでから次の現場で又仕事続行。日本中を点々としているとの事。楽しそうでもあり、大変そうでもあり。

自分はそう言う仕事が有る事も知らなかったが、知っていれば目指したかも知れない。地質調査の仕事であった、ボウリング調査の仕事。

その2人組の中年の方は温厚そうで寡黙であった。3日間で聞いたことは、日本中点々として仕事している。今まで掘ったことが無い県は、23県を残すのみだ、余程のことが無ければ、数年の内に全県制覇出来るだろう。自分はこの仕事が好きだから、大変なことも多いけれど、定年まで遣ってゆくとの事。当時の自分と引き合わせて羨ましかった。今でも実は羨ましい。一生涯一貫して社会に貢献する仕事。


青年の方は、仕事はいたって真面目そうで有ったけれど、剽軽な人だった。宿に新しいメンバーが加わって少し変化が有り楽しそうであった。沖縄、石垣島出身と言うことであった。それで夕食が終わってから、お茶を飲んでいるときに、食べ物の話になって、言いかけて止めたので催促したら、躊躇気味だったけれど、話して教えてくれた。


セミの食べ方、へえそんなものまで食う、と言われそうだし、下手物食いか見たいに思われるのは嫌だけれど、実際郷里で何回か食べたことがあるし、話の種としては面白くて、結構受けそうだし、仲間が増えるかも知れないので、と言う事で話してくれた。

自分には面白かった。東南アジアで、色々な虫を市場で見ていたし、食べるのも知っていた。自分もナナフシや、バッタの空揚げを試食したことが有る。特段の違和感は無かった。蜂の子やザザムシも或る地域じゃ、普通に食べる。我が郷里でもバッタやハチの子、蚕のサナギを往年は食べていたらしい。


セミは新鮮な奴を、地上に現れて2週間で死ぬから、木に止まって横歩きしたり、バタバタ飛び回ったりする連中はみんな新鮮らしい。そいつらを捕まえて、羽根を毟る。ジージー鳴いたり、笊の上をはい回ったりする連中を、薄く油を引いて熱したフライパンでサッと炒める。その上に塩胡椒で味を調える、好みで醤油を少し加えても宜しい。まあカワエビの空揚げのようなものだ。エビほど肉は無いが、それなりに食えるとのこと。ビールのつまみでも良いし、子供のお八つにも良い。セミは沢山いるが、1ヶ所数匹で後は飛んで逃げられるから、採るのは余り効率は良くないが、林を回って歩けば、食べる分ぐらいは容易に採集出来るとの事。

ようし、今度機会が有ったら食べてみよう、とその時思って、もう18、9年ぐらい経ってしまった。

翌日、集落から南の方に散歩に行ったら、万年青浜(オモトハマ)辺りを通過した。エンジン音が聞こえて、彼らが働いている現場の近くを通った。手を振ったら彼らも手を振ってくれた。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年1月26日 (土)

小笠原旅行記(7)




7.レストランのマスター(2)





この後店を閉めて、植物見物に山の方に行くという事で、誘ってくれたので同行して各種の植物を見た。マスターと奥さんの案内付きである。森に入るまでは車でいった。ヘゴの大木や、グァバの木とか、亜熱帯らしい木も沢山見た。勿論バナナもあり、実が生っていた。

楽しい数時間であった。その時は又、やや落ち着きのない軽い感じの独り言の様な、話し掛けているような元のオッサンに戻っていた。料理との格差が余りに大きく植物を観察して森の中を歩きながら終始ニヤニヤしていたが、彼には自分が楽しくてニヤニヤしているという良い意味に誤解されて感じられていたと思う。

今は知らないが、当時は父島にも他の幾つかの島にも持ち込まれた山羊が野生化して、自然草木の食害があり、捕獲作戦を実施しているようだった。森の中を歩いて、開けたところに出たとき、小さな山羊の群れに出くわした。マスターは「捕まえるぞ」と張り切って追い掛け始めた。突然の事で要領を得なかったが、自分も協力して二人で追い掛けた。良いところまで行ったが、ギリギリのところで、もう少しだった一匹がスルリとマスターの手から逃れ、もう我々の及ぶところではない荒れ地の方に逃げおおせた。マスターはかなり悔しがっていた。

マスターはお店に小さな植物園を作るほど、植物は好きだし、山羊も排除したいとは思っているのは分かるが、自然の中を歩くときは、何となくとっても無頓着のように感じられた。

別の日にも、そこで昼食を取った。メニューは違っていたが美味しかった。植物園を直すので、手伝ってくれと言う。どうせ暇だし、高いところにいるマスターに板を差し出したり、重い物を動かしたり、指示のままに手伝った。暫く手伝って、お茶で終了。帰ろうとしたら、封筒を渡そうとする。お礼のつもりのようだった。謝辞したが、どうしてもと言うことで受け取った。後で見たらやはりお金だった。父島でアルバイトをしてしまった。

その時、貰ったタコノキの種を東京で撒いた、まあアダンですね。良く発芽してその夏は、濃い緑の葉が、数十センチに伸びて、楽しめた。数年、越冬の時は部屋に入れて、真夏は強烈な東京の日を当てて楽しんだが、その内段々元気がなくなり、当方も管理を悪くして、その内絶えてしまった。タコノキの話題の時はいつも小笠原や、マスター達の事も家人と思い出して話をしていた。

はっきり覚えてはいないけれど、奥さんは父島に縁があって、マスターは遊びに来て居着いたようなことを言っていた気がする。あのマスター、奥さんどうしているかなあ。自分よりちょっと年上だったけれど、元気でやっていたら、嬉しいなあ。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年1月23日 (水)

センダンのヒヨドリと桜倒木




Dscn1799

センダンの実を食べるヒヨドリ




先週いつもの野川綠道を散歩してしたら、ヒヨドリがピーヨ、ピーヨと鳴きながら、センダンの実を食べていた。今の季節は、食べ物探しも大変だろう。東京基準の大雪が降った後だし。

昔、友達が冬に庭の常緑小木の葉をヒヨドリに食われないように網を掛けた、と言っていたが、その時、ヒヨドリ用に解放したらと言ったことが有る。ま、他人の木だから勝手なことが言える。




Dscn1801倒れた桜の木




そのまま、武蔵野公園に入っていった。何となくイライラしていたので、道端の桜を蹴飛ばしたら、倒れてしまった、と言うのは冗談です、そんなに体力有りません。

毎年、桜の季節には、この木が立っている近辺で花見をしている。参加者は十数人、見る木が一本減った(これも自分基準)



Dscn1802

倒れた桜の根元



この桜、根が腐っていたのか、余り付いていない。雪の重みと風で倒れたのだろう。自分も他人も、倒れる寸前まで誰も気付かない事って有りそうだ。

この桜、ちょこっと片付けた跡が有った。次行くときは、全部片付けられて居るだろう。そこに桜が立っていた痕跡も直ぐ無くなる。

自然の成り行きの気もするけれど、今日は暗っぽい話でした。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年1月22日 (火)

小笠原旅行記(7)




7
.レストランのマスター(1)



自分達が小笠原に行ったのは閑散期だったと思う、多分夏休みとか正月が繁忙期なのだろう。島の中に観光客らしい人は少なかった。食堂も多分閉まっているのが結構あったに違いない。宿の近くで比較的広い食堂が有った。昼は定食屋で夜は飲み屋という感じのお店だった。繁忙期は若い人達で賑わっていそうな感じだった。

初めて入った昼にお客は我々以外に1人もいなかった。マスターは店の一角を占めている小さな植物園の手入れをしていた。奥さんは奥の調理場から出て来た。良く散歩していた人達でしょうと、声を掛けてきた。気さくで親しみやすく感じが良かった。マスターの方は、ちょっと軽い感じで独り言のような、話し掛けているような、おまけに少し落ち着きがない。

店内を見渡して昼食のメニューらしいものは無かった。その日のお勧めにも何も書いていなかった。困ったなあと思っていると、マスターが魚が有るから、それにしようかと言う。魚が途中で鮫に食われて傷ついている。逆に味は良いと思うよ。特段あれと言う食べたいものが有ったわけでは無いので、それにして貰った。値段は1000円にしようと言う。ちょっと訳が分からないが、1000円でまあまあの昼食がたべられるのだから、良いでしょうと言うことで、カウンターに坐って黙って待っていた。

その間、奥さんが、お水を出したり、片付けたりしながら、父島に何しに来たかというので、自然の中をブルブラ散歩したり、街並みを探見したり、景色を見たり、ゆっくりしに来た、と言ったら珍しがられた。大抵の人はダイビングとか、釣りとかその他ハッキリした目的があると。こっちだってハッキリしているのだがなあ。

マスターは何か良く聞き取れなかったが、一言二言言って、厨房の中に入って行った。立ち働く音が聞こえてきた。

暫くしたら大変豪華な刺身定食が出て来た。ツマには白砂青松がダイコンの千切りとキュウリで作られていて、見た目にも誠に美しいものであった。マスターの言動を見て大丈夫かなあ、と思っていたが、小鉢も汁もご飯も香の物も勿論刺身もとても美味しかった。大満足であった。自分の料理には厳しい目と自信に満ちた提供が感じられた。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年1月20日 (日)

大鵬が亡くなった



 2013
119()大鵬が亡くなった。とっても悲しい。人はいずれ亡くなる。努力の人、大鵬が亡くなった、巨星墜つ。

大鵬のお母様は、我が故郷、秋田縁の人であり、奥様は秋田の人である。秋田の人にとっては最も親しい力士であり、最高の横綱である。

小学校の時、多分5年生の時だと思うが、児童会長の選挙で、候補者名を書かず、無効に成った票が有った。それには、大きく大鵬と書かれて居たらしい。

大鵬の高志が、継承されることを祈念します。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013年1月19日 (土)

小笠原旅行記(6)



6.マイマイ街道

貝類は好きだ、勿論食べる方で。イカ、タコ、貝類、その他軟体動物、と言ってもあまりいないなあ、ナマコ、ホヤ、クラゲ程度まで。イソギンチャクもウミウシも食べたことは無い、食べたくもないが。甲殻類より軟体動物の方が好きかも知れない。

ずっと昔、上司に連れられて上品な多分、ある種のクラブに連れて行かれて、エスカルゴを食べた、と言うより食べさせられた。カタツムリ何ぞは食べたくなかったのだけれど。「凄いですね」「一度食べてみたかったんですよ」などと、心と反対の事を言って食べたが、ニンニクとバターの匂いばっかりで特段の感動はなかった。勿論残さずに食べた。後にも先にも食べたのはその1回だけ。自分としては縄暖簾をくぐって、ちょっと贅沢が出来たならサザエの壺焼きで一杯と行きたいね。

上司に連れられてお上品な所に行く前に沖縄へ行った事が有る、上司とではなく友達と。そこで生きたアフリカマイマイを見た。友達が断定的に「触ると脳髄膜炎になる」。下手な兵器よりよっぽど危ないなあと思った。殺さないで手足だけ吹っ飛ばす対人地雷のようなものだ。ちょっと調べたら確かにこのカタツムリ病原体の中間宿主だとの事。昔は知らないで食用の為に輸入して養殖していた。食うよりも畑の作物を多く食われて結局は害虫になって良いことは無かったようだ。

昔は今より貧乏でカタツムリでも無いより増しみたいな時代だったのだろう。今の感覚で先人の努力を簡単に計っちゃ駄目だろうと思う。

小笠原で散歩していて開鑿したばかりの無舗装の砂利だらけの道を歩いた。何か踏んだら砕けると思って足下を見たらアフリカマイマイの累々たる貝殻。大発生してマイマイ自身が脳髄膜炎に罹って死んだか。

小笠原のアフリカマイマイはジャワ島から導入したと言うから、この街道はジャワ島に通じて、それは又直接かどうかは兎も角アフリカに通じている。そもそもこのカタツムリをアフリカの人達は食べていたのだろうか。アフリカマイマイが食えるならジャパニーズマイマイも食える気がするが、実際タニシは食っているし、そう言えば、これも1回だけ食ったことがあるなあ。

今はお金が一杯有って食料を自由にふんだんに輸入しているけれど、主要食料は地産地消が原則だと思う。今は買えても30年後に買えない事態が発生する可能性もあるし、今だって、売っている地域の人でも喜んでいるのは大地主だけかも知れないし。商社やバイヤーはその時の利益が有れば何でもするだけだから、3050100年の計は言うだけ無駄だから、政府は将来の国民の為にしっかり考えて、ダイレクトコストだけで考えないでしっかりして貰いたい、と柄にもなく考えた。

あの害虫が数十年後に小笠原の主要食糧の1つになっているなんて言うのは悪夢だ。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年1月17日 (木)

小笠原旅行記(5)



5
.逆ヒッチハイク



二見港の近くに、つまり町の中心地に宿を取っていた。あちらこちらを歩いた。特段の目的が有ったわけでは無いので、気楽に観光スポットを巡り歩いた。日射しが無く、風が吹けば少し肌寒さを感じたが、日が差していれば誠に快適。自分達は裸足で海岸線を歩いたり、脛ぐらいの所まで海に入ったりはしたが、泳がなかった。ダイビングやその他のスポーツをする柄でもないし。

宿から弁当を作ってもらって出掛けたり、開いている食堂を確認しておいてそこで昼食を食べる予定で歩く場所を決めたり。島中を歩き回った。全て初めての景色で気分良く歩き回った。亜熱帯の明るい景色を見ながら、貸切の様な島を心が解放されて歩き回った。

島に来る観光客は釣りやダイビングの人、当時有ったかどうか覚えていないがホエールウオッチングなど、かなり目的的な訪問者が多かった。自分達のようにフラフラ島中を歩き回る連中は少ないように見えた。実際長い見渡しの良いところでも前後に歩いている人が、全く見えないこともざらであった。

ヘビが居ないと言うのは知っていたので、ジャングルのような所に細い路が有ればドンドン歩いた。他の所では藪でガサッとすればゾッとするが、小笠原では安心して何処でも歩けた。

あちらこちらで、道を歩いていると、車の人から声を掛けられた。~~まで歩いて行きます。と言う返事が多かったが、戻りは~~(宿泊している宿)までと言うと、乗らないか、とい誘いが多かった。何回か乗せて貰った。在り来たりの雑談が多かったけれど、~~に行ったか、~~は見たか、と言うことで、自分達には新しい情報が多く与えられる事が多く大いに感謝した。

3日目だったか、散歩中に車に拾われて、ウミガメの保護と飼育をしている施設に連れて行ってくれた人が居た。その人が施設の人に紹介してくれた、親しそうだった。親切に説明して貰いながら、色々な大きさのウミガメを見た、触ることも出来た。その日の昼食に料理屋風のところでウミガメの刺身を食べた。美味しいと思ったが、その時は今一釈然としなかった。保護飼育とは別に、生存捕鯨と同じ様な決まりで、制限以内で獲って食べて居るようだった。

道路を歩いていると車のスピードを緩めて近づいてきて、止まり声を掛けてくれる。まあ言うなれば逆ヒッチハイクである。ちょっと違う話題のある人と雑談をしたいと言う気持ちも有るように後で感じた。親切にして貰いちょっと変わった経験をしたレストランで、良く散歩していた人でしょう、と言われた。こちらは特に気にも留めていなかったけれど、村の人達で、我々に気付いていた人も居たようだった。村の人は親切である。そう言う意味でも小笠原は良いところだ。台風の時などは、助け合って困難を乗り切っているのだろう。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年1月15日 (火)

小笠原旅行記(4)



4.岸壁の辺り




 おがさわら丸が、竹芝との往復で戻ってくると港の辺りは大いに賑わう。自分が降りた時には、そんなには感じなかったけれども、岸壁で遠巻きに見ていると船が居ないときと、入港したときの落差が凄いことが分かる。傍に居ればそれだけでウキウキした気分だ。乗降客もさることながら貨物が陸揚げされて少なくなっていたスーパーの棚が商品で一杯になるのを見るのは自分が買わなくても嬉しい気分だ。町に居て物流が見えないところで行われていると、有難みは少ないけれど、おがさわら丸に依存している島の物流はハッキリ見えて有難みを実感する。

生活の周期は仕事と休みとか学校と休みより、おがさわら丸の入港日を節目として動いている様に感じる。ものの往来、人の往来、生活のリズム。離島に行ってみないと感じられないある種の生活実感。

隔絶された地域と連絡する業務をしている人達は、きっとそれだけで他の仕事よりも充実感が有るのだろう。目には見えないけれど、物流の陰で支えている人達も、特に気を入れて仕事をしているように感じる。次々に便が有るところなら慣れてしまうと言うこともあるだろうけれど、便が少ない場合は、それを逃したら次までは長い。心待ちにしている人達の要望に応えたい、これこそ仕事の原点だよなあ。最後にやっていた俺の仕事、あれは何だったんだ。

宿の近くの二見港を始め、岸辺を見て歩くと魚が沢山いて水族館の様で見飽きない。大きなミノカサゴが海底近くをフワフワ泳いでいる。何カ所でも見ることが出来た。イトヒキアジ、カワハギの稚魚、底を泳ぐオジサン系の魚。水も海底も綺麗で全く見飽きない。そう言うところで生まれ育つと、横浜当たりの海岸線を見たらガッカリするだろうなあと思う。それでもそれはそれで直ぐ慣れて、特段気にしないで新しい生活に馴染んでゆくのだろう。

或る夕方岸壁の近くにいつもより人が多くいたので吸い寄せられて見に行った。数人の釣り人が居て、その何倍もの見物人が居た。何キロも有るシマアジが釣れている。一帯で56匹は揚がったようだ。自分が見ていたオジサンは人なつこそうに近づいてきて、軽トラックの荷台に載せてあった5キロぐらいの大きなシマアジを見せてくれた。時々回ってきて釣れるので、その時はこうして来るのだと、楽しそうに語っていた。見ているときに次の1匹が釣れた。それも可成りの大物だった。彼はもう今日は良いからと言って、軽トラックに乗って帰った。その時は向いた竿も無かったけれど、竿を準備しないで、もう暫くそこらを彷徨いて見ていた。それだけで十分楽しめた。その地独特の楽しみ。

後年自分も沖縄の離島の岸壁で大きなシマアジを釣った事がある。見物人は居なかった。

又ある時、そこら辺りを散歩していたら、飛行機の爆音らしきものが聞こえてきた。興味を引かれて良く見たら、救難飛行艇であった、旧海軍の飛行艇の写真を見たことが有るが、形は当然ながらかなり似ていた。二見港の東南側に上陸地点が有った気がする。海上に降りるので、滑走路は要らない。最後は陸上に上がる。

偶々近くに居た人と話す事が出来た。島の病院で駄目なときは、重病救急患者を東京に空輸するとのこと、どんな基準かは不明だったが、島に暮らす人達の安心感は大きそうだった。今はもっと進展していると思うが、当時は要請に基づいてその水陸両用の飛行艇が、岩国から1300キロ飛んできて、数分で患者を収容して東京に1000キロ飛んで、病院に引き渡して900キロぐらい飛んで岩国に戻るという話だった。こういう話を聞くと嬉しくなる。幸せを作る社会の費用、目の前のコスパなんて関係ない。

話してくれた人とは、成り行きで暫く、雑談をした。当日は非番であったが、自衛隊員のようだった。希望して父島に来たらしい。当時の自分よりかなり若かった。村の事が色々分かって、面白かった。1つ印象に残った話が合った。

或る少年が、半ばぐれていたのだが、彼が声を掛けて、何回か“説教”したら、立ち直って、今は明るく手伝いや勉強、部活など頑張っているらしい。その少年は、何をしても自由で、誰も干渉しなくて傍目には良いのだけれど、強い孤立感を抱いて居た。その青年から、真面目に怒られて、生まれて始めて、しっかり自分の話を聞いて貰って、嬉しかったとの事。ありがちな話だけれど、自分には沁みる話だった。大抵、人はそんな事には当たり触らず、無視とは言わないが、無関心で通り過ぎちゃうんだよな。会社でも学校でも、問題は直接関係なければ、無関心ということじゃ無かろうか。今の世の中、形だけで、親身じゃない奴が多い。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年1月13日 (日)

小笠原旅行記(3)

3.季節旅行者

父島は亜熱帯の島である。海開きを11日にすると言っていた。まあ、偶には涼しい風も吹くが、暖かい黒潮の中に浮かんでいて、一年中泳げる。白砂の湾内は、静かで人影が無くプライベートビーチの様だ。外洋に面したところでは、泳がない方が良いだろう、流されたら、誰にも気付かれないうちに、短時間で何キロも島から離れてしまう。

朝食後、ブラブラ散歩して海岸線に出た。岩が風波に穿たれて洞窟の様になっているところが見えたので近づいて行った。足場の良いところで釣りをした。20センチ位の根魚がドンドン釣れて面白い。

辺りに猫が寄ってきてニャーニャー。試しに釣った魚を与えると、くわえて逃げる奴、1匹貰って近くで食べる奴、ちょっと匂いを嗅いで通り過ぎる奴、見向きもしない奴。猫は猫でそれなりの苦労が有るのだろうけれど、今度生まれるときは猫と決めてあるので、それぞれ個性があって他人とも思えない。

持っていた菓子も分け与えたが、こちらには全く興味を示さなかった。さっきまで食べていた小鯵のみりん干しが未だ残っていればもう少し親しく成れたかも知れない。小笠原辺りの様にそんなに寒くないところで自由に生きる猫。小笠原には自分が苦手のヘビも居ないし。時には目をランランと輝かせて釣り人の獲物を狙うのも一興。いざとなれば野垂れ死にの覚悟が有ればそれは、それは、それは自由に生きられるだろう。

その小さな湾の反対側に数人の釣り人が居た。こちらと違って本格的な格好で本格的な道具、暫く見ているとなにやら相当な大物が掛かった。仲間が寄ってきて手伝っているが、いっこうに上がってこない。ブットイ竿が満月ならぬ半月のように撓う。暫く格闘していたが糸が切れたようだった、残念。釣れたら見に行くつもりしたのに。声は聞こえなかったが、釣り人達の興奮とざわめきが見て取れた。気力を立て直して又準備して再挑戦。彼らも旅行者だろう。

こちらは小魚を釣って大いに楽しい。何となく洞窟の陰から人の話し声が聞こえてきた。暫くすると中年のオッサンが3人、ボヤーと現れた。風体が今一良くない。近づいて来た。挨拶代わりに何処に泊まっているかを尋ねたら、そこだという。要するに野宿をしている。仕事が有れば働いている。冬は小笠原に来ている。夏は東京で働いている。ここ何年もこんな生活をしている。東京の冬は寒くて敵わん。買って食べたり自炊したり。暢気に暮らしている。釣りは好きじゃないからしない、と言っていた。もう釣り飽きたのかも知れない。暫くの間彼らと、ポツリポツリと雑談をした。本当の心の中までは知り得ないが、吹っ切れているような感じがした。ちょっと憧れた。でも各種税金や年金を払っている風ではない。

折角ドンドン釣れるんだから。おかず、場合によっては主食にすれば良いのにと思ったが、何も言わなかった。自分も何時かは、プータロー1歩手前の芭蕉のように旅の中に生きたいと思っていたが、その時、もう彼らは自由な旅行者、当時の自分が歯の立つ相手では無かった。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013年1月11日 (金)

冬のオサムシ

冬野修氏だったら、人の名前になっちゃうね。

オサムシって、昆虫界でほぼ最強の肉食系です。最近は草食系(装飾系?)が流行みたいですが。




Dscn1786

恐竜界だったら、ティラノザウルス、実際気も荒い。

真夏に地表を歩いているのを、無造作に掴むと、強烈な液体をお尻から噴射しますから、要注意。

カブトムシやクワガタは樹液が食べ物ですから、体は凄いですが、プロントザウルスみたいなものです。

今日午後から近くの武蔵野公園を散歩していたら、オサムシが1匹、フラフラ歩いておりました。お腹空いちゃったかなあ、季節外れの出現。自分と重なった訳じゃありませんが。

オサムシや色々なこと思い出し(芭蕉:さまざまなこと思い出す桜かな)


Dscn1771





| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013年1月 9日 (水)

小笠原旅行記(2)

2.小笠原諸島紹介



今はWEBでお手軽に可成りの情報が検索できるので、興味の有る方はそちらの方をご利用頂きたいのですが、ちょっとだけここでご紹介します。





Photo      青い地球



Photo_2      人工衛星



小笠原諸島は、30余りの島々で構成されていて、殆どは無人島である。硫黄島とか南鳥島には、公官庁の方々が駐在しているが、一般の国民が生活しているのは父島と母島のみだ。東京都小笠原村になる。東京から南に10001800キロ位の所に有る。

小笠原諸島は英語表記では、Ogasawara Islandsで、父島母島など固まって有る島々は、小笠原群島と呼ばれ英語表記は、Bonin Islandsだ。江戸時代に無人島(ぶにんじま)と呼んでいたので、その名残だ。

気候は亜熱帯と言うところだろう。最初の移民は白人で、その子孫の方々が、今も住んでいる。以後何回か八丈島や本土から移民が有った。

人口は父島、約2000人、母島約500人。今は世界自然遺産に登録されている。

交通は、東京から父島へ船便だ。母島は父島からの渡航に成る。飛行場は無い。

宇宙飛行士は、高度約400キロ上空を周回する宇宙船から地球を見て、人生観が変わるという、小笠原群島は東京から1000キロ。絶海の島で、自分を見れば、人生観変わります!?ま、そんなことは有りませんが、素晴らしい所でした。ちょっぴりお金があって、タップリお暇が有る方はどうぞ、いらしてください。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013年1月 6日 (日)

小笠原旅行記(1)

1.小笠原諸島への船旅

189年ぐらい前だったかなあ、小笠原へ2週間ほど遊びに行った。船は、おがさわら丸という、7000トン位の大きな船、歴代同じ名前を使っているようだ。東京湾を出て伊豆諸島やら何個かの岩やら島やらを右に見て1000キロの船旅。自分は殆ど船には酔わないので、ちょっと揺れるぐらいで心地よい船旅であった。今は25時間ぐらいの様だけれど、自分が行った時はもう少し掛かった気がする。

東京湾内にいるときは、ゆっくり信号と航路に従って進んで必ずしも直進のようには思えなかったが、ひとたび東京湾を出たら、全速前進で、富士山やその他の陸地の景色から直線で進んでいるようだった。

船内で何を食べたか余り覚えていないけれど、何度か食堂へ行って食事をした。カレーとか中華丼とか多分食べたのだろう。食堂は混んではいなかった。

お菓子やらつまみなどをダラダラ食べながら畳敷きの二等船室でゴロゴロして本を読んでいた。通路がよく考えられて造ってあり、人を跨いで自分の席へ行くという事はなかった。ずっと畳の上でゴロゴロしていたから、何となく体のあちらこちらが痛むので案内が有る度に景色の見えるところに出てベヨネーズ列岩や孀婦岩を見た、中々のスペクタクルで有った。後はゆっくりじっくり本が読めて退屈することはない。飛行機と違って、フラフラ出歩けるし、外の風にも当たれる。ストレッチも出来る。

エンジンの音や波濤の音も暫くしたら慣れた。特に人と話をするわけでもないので、ちょっとはうるさいとは言っても、ベールの様に自分を包んで外界から遮断して反って落ち着く。それにその時は周りにハイテンションの人が居なくて良かった。甲高い声で楽屋話を延々とされると結構苛つくものだ。

家内は東京湾を出たと思ったら、船酔いしてしまい後はトドのように時折寝返りを打つだけで食事も採らずひたすら寝ていた。勿論生理現象は有るわけだから、自力で何とか行った。自分は気の毒とは思いながら、「頑張ってこい」と声を掛けるだけ。

たくさんの人がゴロゴロしていたが、良く見ると家内のお仲間が結構沢山いた。船が竹芝桟橋を離岸してから小笠原、父島の二見港に着岸するまで寝たきりの人もかなり居た。結構具合が悪そうな人も居た。食堂が閑な訳だ。船に弱い人は誠に気の毒である。

乗船した翌日、二見港に着いた。自分達はフラフラと、予約した宿に向かった。

暫く父島に滞在してから、ははじま丸で往復して、母島にも滞在した。

父島から東京へ戻るために乗船する時に、植物検疫があった。オレンジを持っていた。美味しかったので船内で食べようと思ってスーパーで買ったものだ。水分補給にも良いし。それは本土から移入した物であったが、係員の方から、本土持ち込みは出来ないので、船内で食べてくださいと、指示が有った。うーん、やっぱり小笠原は遠い所なんだと改めて実感した。

父島からの戻りの船は低気圧の為に滅茶無茶揺れた。強い風に流されて、スライドして船首の向いている方向より、余程北向きに進んでいた。ドドドッドーンと船が波に当たる音、スクリューが海中より出てガラッガラーンと空気を切る音、その他風やら人のうめき声やら。数千トンの大船が船首から波に突っ込む感じ。大部分の人がトド、マグロ、大きく揺れるときは、寝ていても体が床からかなりずれた。立って歩くのも相当な困難を感じた。それでも自分は船酔いと言うほどの事は無かったが、さすがに食欲は落ちて食堂には1回しか行かず、手持ちの菓子やらつまみを食べて過ごした。眠っているとき以外はずっと本を読んで過ごした。そんなに揺れたのに東京湾に入ったら船全体に響くエンジン音が有るばかりで、進んでいることさえ分からない程安定して進んだ。

2週間ぶりで東京へ戻った。東京の高いビル群が排ガスを被ったように下の方だけが霞んで見えた。ああもう娑婆だ。夢の様な小笠原、父島と母島のゆったりとした生活。健康で生活できるほどのお金が有れば、1年ぐらいじっくり人生を考える場所には良いところだ。長く居たら、そのままミイラになってしまいそうだけれど、ミイラも悪くない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013年1月 4日 (金)

日向のカマキリ

Photo       元気そう




昨年は秋が短くて、晩秋変じてたちまち冬となってしまった。普段なら晩秋の快晴時、散歩中の日向でカマキリを見ることが多かったのに、昨年は何回も見ない内に、寒さがやってきた。

カマキリは肉食で目の前に動く物は、昆虫は勿論小動物さえも餌食にしてしまう。共食いをするとか、メスがオスを食うとか、蟷螂の斧とか、負のイメージが強い虫だ。

自分は晩秋に日向のカマキリを見つけると、車に引かれないように、危なくないところに移したり、日陰のカマキリは日向に移したりしていた。凍えて死ぬか、鳥に食われて死ぬだけなのだろうけれども、何となく哀れで、少しでも安楽な所へ移したい気分。昨年はそう言う意味で、秋を余り楽しまないうちに、冬に成った。

ガキンチョの頃、バッタとカマキリを同じ虫かごに入れて置いたら、次の日、カマキリにバッタが食われていた。知識では知っていたが、目の前で見たら、フムフム凄い奴だと思った。

卵は一緒に分泌される粘液の中に産み落とされる、卵鞘(らんしょう)と言うらしい。その地上からの高さを研究して、気候との関連、雪の深さ、を研究して、博士号を貰った人が居るらしい。ガキンチョの頃それを見て、凄いんだか、凄くないんだか分からなかった。

当時卵を正確には卵鞘を野原や土手で見つけて幾つかとっておき、冬が越したら、ビニール袋に入れて観察した。毎年遣っていたが、勿論博士号論文は書かなかった()。ちっちゃいカマキリが沢山出てくるのを楽しんだだけ。あんなに出て来て、夏には滅多に見つけられないのだから、鳥や蜘蛛やトンボに食われて居たのだろう、とガキンチョながら思った。

今のお子様達が何をして遊んでいるかは詳しくは知らないけれど、塾や電子ゲーム、各種スポーツの活動など多忙なようだが、自由に遊んでいるかはちょっと分からない。兎も角多様そうではあるが、何となく外部に依存しているようで、自分がガキンチョの頃とは、相当違うようだ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年1月 1日 (火)

空華

Dscn0907

   ありし日のダイヤモンド富士






皆様、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。

昨年は色々なことがありました。心が折れそうなときに、旧友からの優しい言葉がありました。ブログで知り合った何人かの方からは、旧友の様に通じる価値ある言葉を頂いて、大変な励みになりました。誠に感謝しております。

もしかしたら火宅に見いだした空華かも知れませんが、たとえそうであっても、或る意味、目標、糧として遣って行こうと愚考しております。


何か元旦から単細胞で硬くて、我ながらいかんなあと思っております。ちょこっと話を変えて、ずっと昔、小学生の頃、クレージーキャッツが、テレビで良くコントを遣っていた頃、クラスで何かの行事が有ったとき、我々のグループは、その真似をして、断トツの拍手喝采を貰いました。あの頃が自分の人生のピークだったかなあ(笑)

下り坂なら下り坂なりに。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »