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2013年2月26日 (火)

スーパーの自販機





 散歩している時は、喉が渇けば持参の飲物を飲むが(多分貧乏だから!それからもしかしたら貧乏性だから?いちおう貧乏くさくならないように気をつけている)、安いコンビニが有ればそこで買って飲む事もある。

スーパーが有れば、スーパーに入って買う。中で買えば、100円前後。スーパーの前に、自販機が鎮座ましましていることが有る。金額は150円。絶対買わない。

一物一価の法則を信じているわけではないが、釈然としないし第一気分が良くない。

寄付する1000円は惜しくはないが、小銭入れから落ちた10円がグレーチングから溝に落ちると悔しい。

自販機の担当と売り場の担当は違うと思うけれど、地下1階と1階で150円のものが50円位違う。自販機に感情が有ったら、安くして売りたいと思うのじゃ無いかしら。

たまにチャリでホームセンターに行く。喉が渇く、駐輪場の傍に自販機が有る。スーパーの前の自販機と違って安い。違和感は無い、時々買って飲む。

ホームセンターの自販機がスーパーの自販機と会話したら「よく売れて楽しかった」と言う気がする。

スーパーの自販機は「全然売れなかった、おいらは何であそこに立って居たのだろう」と溜め息を吐く気がする。

何か最近、自販機にも話し掛けている気がする。

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2013年2月23日 (土)

フライドポテトもどき

フライドポテト類は英語と米語がちょっと違って居て、それに和製英語が入っているので、ここでは、自分の感覚で決めさせて貰って、短冊なのが、フライドポテト(フレンチフライ)。丸くて薄いのが、ポテトチップスと言うことにします。

イギリスのフィッシュアンドチップスのチップスは短冊の方で、ややこしいが、ご寛恕願って先に行きます。

偽物って大騒ぎするつもりは無いけれど、ちょっと怪しい物が多いような気がする。フライドポテトとかポテトチップスとかは、買っては余り食べない。何故かって、自作に比べたら、なんかとっても高い気がして。ああ言う物は材料費じゃなくて、手間賃だからしょうがないのだけれど、最近頓に貧乏だし、暇だし。

コンビニやスーパーで袋菓子を買うと、フライドポテトもどき、ポテトチップスもどきが横行している。見てくれが完全に違っていれば、良いのだけれど、袋に印刷してある絵柄を見ると、本来の物の様に見えるのに、感触が全く違っていて、何でかなあ、と思ってしまう。材料はジャガイモパウダーとか書いてあって、何のことか分からないし、何かのデンプンも使っているようだ。安いからしょうがないと言う気もするが、今一釈然としない。

子供頃、農業という課目はなかったと思うので、理科の実験() か何かでジャガイモを栽培した。家の畑でジャガイモを植えたり収穫したりする手伝いをしたことが有るが、全く同じで特には感動しなかった。当時ジャガイモは高い物では無かった。煮たり焼いたり蒸かしたり、各種料理で食べた。流行ってきたら、フライドポテト、ポテトチップスにしても食べた。これは姉が作ってくれた。目先が変わった。とても美味しく感じていた。

ファストフード店では、フライドポテトが食べられそうだが、他のメニューが自分の好みじゃないし、未だにあの手の店の雰囲気に馴染めない、自分が凄く浮いている気がする。異次元の人と話している錯覚に囚われる。

スライスしたフライドポテトは今何処で食べられるのだろうか、ちょっと心当たりが無い。もう揚げたてというのは廃れてしまって、自分で作るしか無いのだろうか。

便利なようで、実際はそうでもない事が多い。手軽に食べられそうで有るが、実際はちょっと紛い物で有ることが多い。

あ、そう言えば、子供の頃、ジャガイモを潰して、卵を入れて、砂糖をタップリ入れた、田舎で何と言ってか忘れたけれど、英語だと多分スイートマッシュドポテト、未だお袋が若かった時に時々作ってくれた。あれ好きだったなあ。

もしかしたら名前なんか無くて、「たっちゃんが好きなジャガイモ」だったかも知れない。

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2013年2月20日 (水)

アカエイ遡上


20127月に千葉県いすみ市の夷隅川にアカエイが遡上した。当時入院していた。テレビのニュースで見たら、行ったことが有る場所だった。数百匹という事で橋の上からの映像であった。そう言う現象って好きだから、実際の所を見たかった。


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大抵、海の魚が産卵以外で川を沢山遡上するのは、理由はともあれ、大潮近辺で有る。後日WEBで見たら大潮回りであった。過去にも何回かアカエイがそれなりに群で遡上したことが有るらしい。未だ理由は分かっていないそうだが、注意深く見ていれば、又有るかも知れない。

暇で土日が近かったら、多分現地に行ったと思う。そう言うの好きな友達もいるし。その友達は自分より相当年上で、貧乏だが暇である。気が合って、釣りやら、山菜採りやら偶に一緒に行く。現在闘病中だが、比較的元気な病人である。病気の完治は難しそうだが、時々入院して治療、病気で死ぬ前に、寿命で死にそうだ、と本人は言っていた。

どうせ行くなら、現地で何匹か捕まえるだろう。あそこら当たりは、何処にも竹林が有るから、硬そうな竹で銛を急拵えして、ヒモで引き戻せるようにすれば使えそう。そもそも的が大きいし、数が数だから、食べる分位獲るのは、簡単だろうと想像した。

実際現地に行けば、群が見つからなかったり、場所が分からなかったり、その他障害が多くて色々対処しなければ成らないことが多いけれど、そんな事は遊びには付きもので、それ自体が楽しい。魚体が大きいから、獲れたらその場で捌いて、美味しいところだけ切り身にして、氷の入ったクーラーボックスに入れて持ち帰ろう。

帰ったら、刺身と煮付けにして食べよう、少し冷凍して後日の煮付けようとして、残りは干して長期保存。カスベの干物は田舎じゃかなり高い干物だ。その煮付けはハレの日の食べ物だ。

当時入院中で体調は悪いと言っても暇なものだから、想像、空想、妄想だけは自分都合で勝手に一人歩き。

暫くして、退院して、秋口になり、友人が一週間ほど入院、退院してから彼の住処に見舞い。千葉のアカエイ遡上の話で盛り上がった。彼も家に居ながら、入院中の自分と一緒に夷隅川に行って、アカエイを獲って~~と同じ事を考えていたらしい。病気でそんなに飲めないが、それを肴にちょこっと一杯。

昔の記事『カスベの食べ方』、お暇な方はどうぞ。




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2013年2月16日 (土)

空芯菜

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ずっと昔、タイで初めて食べて大変美味しく気に入り直ぐ虜になった。タイではパックブンと言う。好きな人は多いと思う。料理も簡単だし、癖はないが味があり、今でも大好きな野菜である。いつも油炒めで食べているが、鍋物の具でも行ける。タイ-スキには欠かせない野菜だと思う。

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何回か借りている市民農園で栽培したら、大収穫で益々好きになった。昨年は天候に恵まれず、余り収穫できず残念だった。

ヨウサイとも言うらしいが、自分は聞いたことがない。エンサイとかアサガオナとも言うが最近は余り聞かなくなった。これで呼び名も安定したのかなあと思っていたら、「ヒルガオナ」と言って売っているスーパーが有った。確かにヒルガオ科の植物だから、そんな外れではないが、一物一名になって、心穏やかになりつつあったのに、なんでかなあと自分は思ってしまった。ワザワザ世の中面倒にするなよ、っていう意味。

登録商標の関係かも知れないが、もうちょっと何とか成らない物かと思う。そもそもこれがもし登録商標だったら、又別の意味で、驚く。

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話変わって、数年前に知って、市民農園で栽培したら虫も付かずかなり出来た野菜に、水前寺菜(スイゼンジナ)がある。空芯菜と同じで、新芽を摘み取って食べると、そのあとに又新芽がドンドン延びてきて、季節中摘んで食べられる。

キク科ギヌラ属の多年草で、熱帯アジアが原産である。炒めても、お浸しでも、その他普通の野菜と同じで、多方面に使える、割と好きな野菜である。ちょっと香りがあり、ぬめりもある。



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名前に関していえば、このスイゼンジナ、空芯菜と又別の意味で、これが又一筋縄ではいかない物がある。

加賀野菜(これも自分的にはちょっと抵抗がある)では、これを金時草(キンジソウ)と呼んでいる。石川県特に、金沢方面で長く作られていたので、ある意味地方名、但し日本で最も多く栽培されていそうな感じ。当然石川県の人達が栽培出荷すれば、キンジソウと言うだろう。

スイゼンジナは和名となっているが、日本に伝わったときに、熊本当たりが先進地で、水前寺菜と名が付いたらしい。地方名イコール和名となった感じ。当然熊本県の人達が、栽培出荷すれば、スイゼンジナと呼ぶだろう。

沖縄ではハンダマ、ハルダマと呼んでいる、これも地方名だが、当然沖縄県の人達が栽培出荷すれば、ハンダマ、若しくはハルダマと呼ぶだろう。

愛知では式部菜と呼んでいる、由来は葉の裏が紫であるから、紫式部の連想?これも地方名だが、当然愛知県の人達が栽培出荷すれば、式部菜と呼ぶだろう。

ドンドン流行ってくれば、暫くの間は多分、もしかしたら永久に、同じ市場に同じ野菜が産地違いで別名で並ぶ、それはそれで良いと思う。産地を見なくても産地が解って良い。但し輸入品に勝手に名前を付けて偽装する人達もいるから注意。



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栽培が比較的簡単で次々に新芽を摘んで食べられる野菜に、モロヘイヤがある。これも市民農園で栽培して、沢山採れる。好きな野菜だ。水と肥料を時々やっていれば、季節中食べられる、虫も付かない。エジプトから来たから() 日本の虫は未だ食べ方を知らない。


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これは自分の知る限り、色々な名前が流布しないで、初めからモロヘイヤでこれが定着した気がする。自分は、こんなスッキリタイプが好きだけれど、世の中はそんな単純ではない。他言語を自国語に呼び込むのはそれなりに難しい、時間も掛かるだろう。


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ここで昔の記憶がちょっと蘇った。パイナップルを輸入業者が検疫申請したら、パイン・アップルじゃないから受け付けない、と言う話。公官庁だから書類は大事だろうけれど、そんなのどっちでも良いじゃないの、と言うのが昔の自分の感想。検疫の方で、パイナップル=パイン・アップル=アナナス、位に運用すればいいだけの話。


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いつも訪問させて貰っている


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朝太郎さんの「タイの田舎mo巡る♪」「アボカド  おっさんにチョコもらった」


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と言う記事がこれに関連して大変示唆に富んでいるので、ご紹介させて貰います。記事も面白いですが、ここに集う方々のコメントもとっても面白です。毎日考え、楽しんでいます。




『難波の蘆は伊勢の浜荻』

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2013年2月13日 (水)

小笠原旅行記(12)

12.砲台


民宿で一緒の3人組から砲台の場所を聞いた。宿から歩いて行った。1時間だったか、2時間だったか、覚えていないが、人とすれ違うこともなく、辿り着いた。

ジャングルの中を歩いて行くと山腹に小さな入り口が有った。なんの障害もなく、自由に入ることが出来た。場所によってはちょっと高さが足りなくて歩きづらかった。間もなく開口部が見えて、砲台の主要部に出た。木々が伸びていて、開口部の先の見通しは余りよくなかった。本来は海岸線や海がよく見える場所のはずだ。

砲は当時既に台座から外れて地べたに転がっていたように思う。6インチ砲(15cm)である。多分どっかの巡洋艦から取り外して設置した物だろう。そこに設置されてから何発かは試射したのだろうか。大砲が真っ赤に錆びてそのままの形で、横たわっている光景にも驚いたが、自分がもっと驚いたのはそこにヤマ○の大きな発動機が有ったことだ。発電機を回していたのだろうか。その砲台の空間に有るものは全て真っ赤に錆びていた。大砲と大きな発動機と、その横には油差しが、今にも誰かに掴みあげられるのを待っているかのように、転がっていた。他のものは形を留めていなかった。

目の前に見える物が妙に生々しかった。数十年前、近くに駐屯していた部隊が、交替で常にここに詰めていたのだろう。将兵の声や動作の音が聞こえるような、薄く幻のように見えるような錯覚に囚われた。

妙に蒸し暑く感じられた。暫く見てから帰路に付いた。

その時は、見て回らなかったし、気付かなかったが、当時は未だ、高射機関砲や高角砲もそれと分かる形を残して何基か林の中や、やや荒れた畑の中に有ったらしい。後で本やネットで見た。

自分達の親世代が太平洋戦争で戦った最後の生き残りである。戦中は大東亜戦争と言っていたが、敗戦国日本は戦勝国から、太平洋戦争と名前を変えられた。お国のために志願して、招集されて、兵隊となって、戦って、死んで、生き残って、もう幾年かすれば、兵隊としての戦争体験者は全て鬼籍にはいるだろう。勿論戦ったのは青年の男だけではない。

女も子供も年寄りもみんな戦った。そして現代が有って、自分が今こうして生きている。みんな昔の事は余り語らないけれど、その年の分を生きていたんだ。


明るい空の下、戻りは二人とも無口になっていた。妙に喉が渇いて水を飲みながら帰った。



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2013年2月11日 (月)

小笠原旅行記(11)





11.サヨリ釣り

午後少し遅くに、歩いて連絡船の発着する沖港に釣りに行った。岸壁の辺りを彷徨いていると、サヨリの群が見えた。大きなサヨリだ。東京近辺では見たことのない大きさだ。漁協の近くで魚を捌いている人が居た。近づいてみると民宿の主人であった。マグロ系の背骨が未だまな板の上に有った。骨に付いている身を少し刮げ取って貰った。これでサヨリの餌が出来た。

サヨリの群はいなくなることは無かった。泳ぎ回って岸から遠くになったりかなり接近したり。釣れない距離ではない。振り出し竿の長さより少し長めの道糸を張って釣り開始。浮き下は15センチぐらい、群の近くに餌が落ちると直ぐ釣れた。釣れてサヨリが暴れると、群は暫く沖側に移動する。群を注視して見失わないようにする。竿を振って届く範囲に来たら、仕掛けを振り込む、間もなく釣れる。サヨリが暴れて群が沖側に移動する。これを繰り返して、2時間ぐらいで十数匹の群を全部釣ってしまった。網には大きなサヨリがタップリ詰まっている。東京の秋によく食べるサンマに口先を付けたように大きい、サンマと違ってもっと胴体が丸みを帯びているので質量が有る。

サヨリは刺身に作れば、相当美味しい魚だし、魚体が大きいので、泊まり客全員がタップリ食べられる量だった。民宿に持ち帰って調理して貰うか、台所を借りて自分で調理したい所だったが断念した。それは前日の夜に港で大きなメアジが一匹釣れて朝食の時にそんな話をしていたら、何となく魚を持ち帰られても有り難迷惑そうな気を感じがしたからだ。

5キロぐらい有るシマアジだったら話はまた別なのかも知れないけれど。それで多分お互いの平安の為に、黙りを決めて持ち帰らないことにした。

折角釣った魚だし、新鮮なサヨリの造りは美味かろうに、お酒もご飯も進みそうだ。逡巡していると、地元の小学生の兄弟が側を通りかかった。話し掛けて暫く雑談していると、糸口が見つかり、良かったら持ち帰って食べてくれないかと話してみると、頂ければ持ち帰り食べたいとのこと。

言葉は拙かったが丁寧な感じで礼を言ってから、二人で仲良さそうに話をしながら帰って行った。感じのよい兄弟だった。

もう彼らも三十前後である。彼らの顔は覚えていないが、真冬に外房でサヨリ釣りの人のバケツに、鉛筆サヨリを見たり、干物屋でサヨリを見たりすれば、時に応じて母島のあの大きなサヨリの事や、少年達の事を思い出す。

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2013年2月 4日 (月)

小笠原旅行記(10)

10.岬の老夫婦




1番大きな集落の有る母島の南部の沖港の側に民宿は有った。そこから数キロある北端に近い北港に行こうと思っていると言うと、同宿の3人組が仕事でその近辺まで行くと言うことで、車に便乗させて貰うことになった。親切な人達であった。その内の1人は、偶々自分と同県の出身でそれも親しみが持てたし、単純に信頼した。朝の約束をして、夕食後のお茶を終え、部屋に帰った。

普段から休みの日に十数キロの散歩をしていた。北港までの往復は全く心配していなかったが、当日は曇り空で、雨が降ってもおかしくない空だった。

当日かなりガタの来た、ちょっと破れた幌の四駆に便乗させて貰って北港の入り口まで送ってもらった。歩くのに訳は無いが、自動車に取って道は余り良くなかった。そこから北港に歩いていった。港とは名ばかりでフィヨルドのように岸が高い小さな入り江に小さな埠頭が有るばかり。人気は全く感じられなかった。水は素晴らしく綺麗だった。小波が打ち寄せ、滅多に感じない別世界に入り込んだような気持ちになった。SFに有るような太古の景色。その紺碧の海面に首長竜の群が獲物を追って、湾に現れても不思議な気がしないほど、色の濃い素晴らしい景色だった。

聞いていたとおり何年か前の台風で人家は全て壊れたと言っていたが、全くその通りで、まともな家は全くなかった。民宿の人の話に依ると、当時から住んでいた老夫婦が自力で家の一部を補修して未だに住んでいるとの事だった。よく観察したらそれかなあ、と思われる家が有り、見落としそうであったが確かに住んでいると言えば居そうであった。寂しいところにポツンと生活しているのを、想像すると胸が高鳴る。胸騒ぎもする。

準備をして釣り開始。カサゴ、ハタ系の魚が次々に釣れて面白かった。美しく澄んだ水の底にある岩や玉石が揺らいで見えて、魚の影など見えないのに、綺麗で元気な魚が次々に柔い竿を弓なりにする。暫くしたら雨がポツポツ降り出した。壊れた建物の屋根の下で雨宿りをした。ボンヤリ夢の中の様な景色を見ていたら、雨が少し強くなった。小止みになったら、持参の雨具を着て宿に向かおうと話していたら、車の音が聞こえてきた。朝乗せて貰った車。3人組も仕事を断念して宿へ帰るという。親切に迎えに来てくれた。

車内は少し寒かった。ちょっと挨拶をした後は誰も余り話をしなかった。

車の中で、自力で直したという家の板そのものの色が、妙に心に引っ掛かっていた。太古の景色の中で、風の音と、波の音を聞いて、俗世界から隔絶して住んでいる老夫婦、毎日何を語っているのだろうか。

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2013年2月 1日 (金)

小笠原旅行記(9)

9.民宿の老夫婦

母島で泊まった民宿は全部で56部屋と思われた、大きくはない。老夫婦が二人だけで経営していた。最初の食事の夕食時間からちょっと他とは違う感じがした。宿に入ったときに時間の案内もなかったし、希望も聞かれなかった。勿論その時は、特段何も感じなかった。

通常自分が期待する時間になっても全く夕食の準備が出来た気配が無い。食堂に行ってみたが、厨房で準備中らしい音は聞こえてくる。仕方なく部屋に戻って、本を読んで寝ころんで待っていた。

8時過ぎに又食堂に行って様子を見たら、やっと配膳が始まりそうな気配なので、食堂に居ては、悪いと思って一旦自分の部屋に戻った。やや暫くしてから奥さんの明るい声で、呼びかけがあった。部屋の中で小さく思わず独り言を言った。「おっそいよ」

その日はどんな料理だったかは全く覚えていないが、とっても待たせた料理と言う気はしなかった。島の新鮮な材料で美味しかったけれど。

2人は母島にどんな縁が有るかは分からなかったけれど、母島に移住して民宿を始めた。東京の下町に長い間暮らしていたようだ。主人は定年で会社を退職した。奥さんは踊りか何かの芸事の師匠さんを遣っていた。主人は地味で、奥さんは明るく派手で声が甲高くいつも笑っている感じ、但し料理、掃除、その他の家事は不得意そうに見えた。そんな二人が又何で民宿を始めたかは、分からなかったけれど、民宿は繁盛していると言っていた。毎日張り切って働いて、色々な人と巡り会えて、そのお客さんに喜ばれて働くのは楽しい、と言っていた。ちょっと胸に響く。

2日目の昼食はお弁当を作ってもらった。しっかり包んであり、そのまま鞄に入れて出掛けた。貰ったときに少し重いなあ、とは思ったが、昼食の時間に開けてビックリ。使い捨ての容器にご飯が全体に入っており、おかずがその上にパラパラと塗すように置いてあった。おかずも弁当向きではなく、全体に薄味で有った。出張の時は定宿としている同宿の三人組の都庁の人で父島に駐在している方が、おにぎりが良いけれど、自分は1つにして貰っている。と言っていた。その時に半分意味が分かった気がした。

次の日はお握りにして貰った。2人分とは思えない大きさであった。彼らから見えないところで、そっと開けてみたら巨大なお握りが2個ずつ4個入っていた。まん丸で全体が海苔に包まれていて真ん中に梅か鮭が少し入っていた。ご飯に塩は足らなくこれも薄味で、今は多分平気だが、当時は結構辛かった。何か誤解が発生している風である。それとも長年の習慣なのか、何か別の理由なのかは分からず仕舞いであったが、それはそれで良い思い出だ、だからこそ今でも覚えている。

その日の夕食は現地で捕れるクジラの料理であった。やはりかなり夜遅くになってから出来た。新鮮で美味しかったけれど、刺身が主でそんなに時間が掛かるとは思えなかった。もしかしたら二人の長年の時間的習慣はそうだったのかも知れない。民宿なら夕食は67時頃開始というのは、当方の思い込みかな、と一瞬考えた。

あれから189年ほどが経った。場所も場所だけれども、妙に二人の事は覚えていて時々思い出す。暫くの間、我が家では、大きなお握りの事は、○○○ちゃんお握り(○○○は奥さんの名前)、ご飯が弁当いっぱいに入っていて、その上におかずがパラパラ乗っているのは、○○○ちゃん弁当と言う。そう言えば最近、テレビでも大きなおにぎりを見ることが無くなったなあ。

ご存命なら優に80才以上である。元気に民宿を営んでいる気もするし、引退して静かに暮らしている気もする。もう鬼籍に入ってしまったかも知れない。月日は流れた。20年何て、自分に照らしてみても、一瞬の事のようだ。あの○○○さんの甲高い「御食事の準備が出来ましたよ」の声が、今でも鮮明に思い出される。

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