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2013年11月 6日 (水)

死屍累々

先ず、最初にお断りします、刺激的な写真は載せていません。







秋の夜長。特に何をするでもなく、ボンヤリしていたら、年配の友人と過ごした日々が、頭に浮かんだので・・・




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二人のかなり年上の友人について・・・





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Sさん、昭和3(1928)生まれ。平成21年に亡くなった。81才。

昭和20(1945)310日のアメリカ軍による東京大空襲の時に旧制中学生だった。数日後に、勤労動員で空襲された下町に後片付けに行った。街中に焼け焦げた遺体が有って、隅田川には、浮いた遺体が、それこそ数えられないぐらい有った。

この方とは、晩年に知り合って、亡くなる暫く前まで、親しくお付き合い頂いた。入院するまでは月に一度ほど数時間お話しすることが多かった。この話は1回だけだった。年月が経つ内に、思い出すことは少なくなったとは言っていたが、脳裏に焼き付いていると言っていた。





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Mさん、昭和9(1934)生まれ。自宅療養中。79才。

昭和2086日のアメリカ軍による広島への原爆攻撃の時は国民学校の小国民だった。対岸の四国に住んでいた。原爆雲を見た。数日後、叔父さんと連絡が付かないと言うことで、父に連れられて広島に行った。瀕死の人、路上や川に累々たる遺体が有った。叔父さんの遺体は発見できなかった。

この方とは、10年位前に知り合った。元気な頃は何回か、一緒に釣りに行った。最近は月に1回ぐらいお邪魔して数時間雑談をしている。




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二人とも見た物は、世界の各宗教も想像しなかったこの世の地獄。




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コメント

いつもコメントをくださってありがとうございます。

私の母も昭和9年(1934年)生まれです。
戦争のことはあまり話しをしませんが、一緒に2人で長く生活していたお婆さん(私のひ婆さんです)のことをよく話します。
結構為になる話しもありますよ。

投稿: ドラえもん | 2013年11月 6日 (水) 14時55分

ドラエもんさん、こんにちは
ご訪問有り難うございます。

自分の爺さん、戦中の時の事を少し話していましたが、庭に有ったサツキについて、「このご時世に~~」みたいなことを言われて、全部切ったそうです。
それから戦後、戦争債券が、紙くずになってしまったそうです。
直接体験者も、少なくなりました

投稿: ハシビロコウ | 2013年11月 6日 (水) 17時30分

亡父母と親類、東京に住んでましたが、戦争での一時疎開の話は聞きましたが、罹災の話は聞いたことはありません。父は高射砲部隊で、弾が届かない高度を飛ぶB29を相手にしていたと云う話は聞きました。そういった意味では、私は戦争の生々しい話は聞いたことがありません。
日本に居る息子(33)とは戦争の話はした事はありませんが、タイの息子(13)とは、最近、日本・タイの戦争の話(クーカムを絡めたりして)をしてます。息子、勉強していて会話になり、びっくりしてます。

先日、息子が通ってる中高一貫校で、ロードー(軍事教練)の打ち上げセレモニーを見ることが出来ました。高校生1200名位でしたが、起立で倒れるものも居なく、訓練結果の披露、堂々としていて、感動物でした。
日本では味わえない事だと思います。

投稿: カラシン | 2013年11月 6日 (水) 18時05分

カラシンさん、こんばんは
自分が高校の時の先生が、横須賀の高射砲部隊だったそうで、お話しを何回か窺いました。
1回空襲が有ると、トラック一杯分ぐらいの弾を撃ち尽くし、砲身の冷却が間に合わなくなるほどだった。
ちょっと離れたところの砲が、直撃弾を浴びて、砲は吹っ飛び、兵士の遺体も無かった。
塹壕奥深くの司令部の連中は、ちょっとの傷で大騒ぎしていた・・・

息子さん、知らないうちに成長している。

先輩の分列行進など、良く統制が取れて、凄かったんでしょうねえ。濃紺の制服で力強いだろうし。

御殿場の戦車の演習見たことが有りましたが、凄い迫力でした、砲も強烈だし

投稿: ハシビロコウ | 2013年11月 6日 (水) 20時43分

実際の地獄を見た人と見てない人とでは、その人生観などが全く違うと思います。

父は昭和6年生まれです。
大分県に疎開してるときに空襲にあって、焼夷弾というのですか? バーンと破裂して火が飛び散るヤツが降ってきたそうです。
トキワデパートの中に逃げ込んだそうですが、爆弾がショウウィンドウを粉々にぶっ飛ばして火が店内に走り込んできたそうです。
映画「火垂るの墓」で見た東京大空襲時の焼夷弾はパラパラと発煙筒のようなモノでしたので、色々ありそうですね。

小学3年生の国語教科書に「チイちゃんの影送おくり」という読み物があります。
空襲時に家族とはぐれて一人になる女の子の話です。防空壕の中で一人で寝たりするのですが、長男は上記の映画で焼夷弾や防空壕を見たばかりだったので、リアルに感じ取ったようです。もしチイちゃんが生きてれば、君のお婆ちゃんと同じ年齢だと説明しました。

投稿: muga | 2013年11月 7日 (木) 00時08分

ムガさん、お早うございます
当地は朝から雨です、午後から上がると言っていますが・・・

昔、広島の原爆資料館を見ましたが、あれが広島中に広がっていたわけですから、正にこの世の地獄、意味の分からない小さな子供に見せては良くないと思いますが、或る程度に成ったら、見た方が良いと思っています。

3月10日の東京大空襲の時、一番年長の伯母さんが、下町に住んでいて、逃げ回った話を聞いたことが有ります。自分は勿論生まれていませんが、その時、従兄弟が1人死にました。

未だに世界中で、似たような事をしていますが、困ったものです

投稿: ハシビロコウ | 2013年11月 7日 (木) 07時34分

広島の地に住みながら原爆は知りません、愛媛県の西の地方の漁村に疎開をしていたのと、小さい子供でした、戦争が終わり数年経って広島県の町に帰って来たので、戦争の事は良く解りません。
その頃は広島市に行く機会も無く、今広島の町の思いでは復興した町で、原爆の傷跡は原爆ドーム位で、今のように整備されて無く誰でも塀を越えればは入れた記憶が有ります。
戦争は本当に嫌ですね、平和の世の中が続く事を切望しています。

投稿: ヒマ トック | 2013年11月 7日 (木) 17時24分

ヒマトックさん、こんばんは
平和が一番ですね~。
国家間も、地域間も、個人間も。

男女間は少し波風が有った方が、お互いの発見もあって、楽しみが増えるかも知れませんが・・・
愛と信頼と尊敬が基底に有れば、少し恨み合ったりするのも、人生の調味料!?

瀬戸内海に面した町は、何処も海が穏やかで、遠くには山が見えて景色が良いばかりではなく、食べ物も美味しくて良いですね。これからは、柑橘系も沢山出るし、北国生まれにとっては、憧れの地です

投稿: ハシビロコウ | 2013年11月 7日 (木) 21時06分

この世の地獄を直接目にした事はありませんが
数年前の津波の映像は涙が出ました。
つい先日のフィリピンの台風も
津波と変わらない被害を出してますね。
私の前職は自然災害があると
昼夜を徹して復旧に取り組んでました。
現地へ入ると台風や豪雨の爪痕は凄まじく
現地の人達が1日も早く普段の生活が出来るよう
協力会社と共に必死に取り組んでいたのを思い出します。
今住んでいるウドンタニは自然災害も少なく
年に数回の洪水も想定内。
政治は揉めてますが
国民同士が手を取り合って仲良く過せればと思います。

投稿: メンカーム | 2013年11月21日 (木) 11時18分

メンカームさん、こんにちは
前職は凄い大変な有意義なお仕事だったんですね、勿論今は、そうじゃないって言う意味じゃありません(笑)

日本は、地震、台風、津波など、世界でも災害の多い国だそうです。それが今の日本人の精神構造に大きく影響しているそうです。

江戸時代に、雲仙普賢岳が爆発して、島原大変肥後迷惑と後世言われたときに、15000人程度が亡くなったらしいですが、当時の各関係藩も、炊き出しやら教護施設やら免税やら、今の人達と同じ様な事をしたと、本で見た事が有ります。

タイにも天災少しは有りますが、「ラッキーカントリー」って気付いて居ないようで、政治は不毛で(笑)幸せそうに見えます。
それでも洪水の時は、助け合って「コンタイチュアイカン」(勿論コンタイ、この場合住人という意味です)

投稿: ハシビロコウ | 2013年11月21日 (木) 13時49分

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