2013年2月13日 (水)

小笠原旅行記(12)

12.砲台


民宿で一緒の3人組から砲台の場所を聞いた。宿から歩いて行った。1時間だったか、2時間だったか、覚えていないが、人とすれ違うこともなく、辿り着いた。

ジャングルの中を歩いて行くと山腹に小さな入り口が有った。なんの障害もなく、自由に入ることが出来た。場所によってはちょっと高さが足りなくて歩きづらかった。間もなく開口部が見えて、砲台の主要部に出た。木々が伸びていて、開口部の先の見通しは余りよくなかった。本来は海岸線や海がよく見える場所のはずだ。

砲は当時既に台座から外れて地べたに転がっていたように思う。6インチ砲(15cm)である。多分どっかの巡洋艦から取り外して設置した物だろう。そこに設置されてから何発かは試射したのだろうか。大砲が真っ赤に錆びてそのままの形で、横たわっている光景にも驚いたが、自分がもっと驚いたのはそこにヤマ○の大きな発動機が有ったことだ。発電機を回していたのだろうか。その砲台の空間に有るものは全て真っ赤に錆びていた。大砲と大きな発動機と、その横には油差しが、今にも誰かに掴みあげられるのを待っているかのように、転がっていた。他のものは形を留めていなかった。

目の前に見える物が妙に生々しかった。数十年前、近くに駐屯していた部隊が、交替で常にここに詰めていたのだろう。将兵の声や動作の音が聞こえるような、薄く幻のように見えるような錯覚に囚われた。

妙に蒸し暑く感じられた。暫く見てから帰路に付いた。

その時は、見て回らなかったし、気付かなかったが、当時は未だ、高射機関砲や高角砲もそれと分かる形を残して何基か林の中や、やや荒れた畑の中に有ったらしい。後で本やネットで見た。

自分達の親世代が太平洋戦争で戦った最後の生き残りである。戦中は大東亜戦争と言っていたが、敗戦国日本は戦勝国から、太平洋戦争と名前を変えられた。お国のために志願して、招集されて、兵隊となって、戦って、死んで、生き残って、もう幾年かすれば、兵隊としての戦争体験者は全て鬼籍にはいるだろう。勿論戦ったのは青年の男だけではない。

女も子供も年寄りもみんな戦った。そして現代が有って、自分が今こうして生きている。みんな昔の事は余り語らないけれど、その年の分を生きていたんだ。


明るい空の下、戻りは二人とも無口になっていた。妙に喉が渇いて水を飲みながら帰った。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年2月11日 (月)

小笠原旅行記(11)





11.サヨリ釣り

午後少し遅くに、歩いて連絡船の発着する沖港に釣りに行った。岸壁の辺りを彷徨いていると、サヨリの群が見えた。大きなサヨリだ。東京近辺では見たことのない大きさだ。漁協の近くで魚を捌いている人が居た。近づいてみると民宿の主人であった。マグロ系の背骨が未だまな板の上に有った。骨に付いている身を少し刮げ取って貰った。これでサヨリの餌が出来た。

サヨリの群はいなくなることは無かった。泳ぎ回って岸から遠くになったりかなり接近したり。釣れない距離ではない。振り出し竿の長さより少し長めの道糸を張って釣り開始。浮き下は15センチぐらい、群の近くに餌が落ちると直ぐ釣れた。釣れてサヨリが暴れると、群は暫く沖側に移動する。群を注視して見失わないようにする。竿を振って届く範囲に来たら、仕掛けを振り込む、間もなく釣れる。サヨリが暴れて群が沖側に移動する。これを繰り返して、2時間ぐらいで十数匹の群を全部釣ってしまった。網には大きなサヨリがタップリ詰まっている。東京の秋によく食べるサンマに口先を付けたように大きい、サンマと違ってもっと胴体が丸みを帯びているので質量が有る。

サヨリは刺身に作れば、相当美味しい魚だし、魚体が大きいので、泊まり客全員がタップリ食べられる量だった。民宿に持ち帰って調理して貰うか、台所を借りて自分で調理したい所だったが断念した。それは前日の夜に港で大きなメアジが一匹釣れて朝食の時にそんな話をしていたら、何となく魚を持ち帰られても有り難迷惑そうな気を感じがしたからだ。

5キロぐらい有るシマアジだったら話はまた別なのかも知れないけれど。それで多分お互いの平安の為に、黙りを決めて持ち帰らないことにした。

折角釣った魚だし、新鮮なサヨリの造りは美味かろうに、お酒もご飯も進みそうだ。逡巡していると、地元の小学生の兄弟が側を通りかかった。話し掛けて暫く雑談していると、糸口が見つかり、良かったら持ち帰って食べてくれないかと話してみると、頂ければ持ち帰り食べたいとのこと。

言葉は拙かったが丁寧な感じで礼を言ってから、二人で仲良さそうに話をしながら帰って行った。感じのよい兄弟だった。

もう彼らも三十前後である。彼らの顔は覚えていないが、真冬に外房でサヨリ釣りの人のバケツに、鉛筆サヨリを見たり、干物屋でサヨリを見たりすれば、時に応じて母島のあの大きなサヨリの事や、少年達の事を思い出す。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年2月 4日 (月)

小笠原旅行記(10)

10.岬の老夫婦




1番大きな集落の有る母島の南部の沖港の側に民宿は有った。そこから数キロある北端に近い北港に行こうと思っていると言うと、同宿の3人組が仕事でその近辺まで行くと言うことで、車に便乗させて貰うことになった。親切な人達であった。その内の1人は、偶々自分と同県の出身でそれも親しみが持てたし、単純に信頼した。朝の約束をして、夕食後のお茶を終え、部屋に帰った。

普段から休みの日に十数キロの散歩をしていた。北港までの往復は全く心配していなかったが、当日は曇り空で、雨が降ってもおかしくない空だった。

当日かなりガタの来た、ちょっと破れた幌の四駆に便乗させて貰って北港の入り口まで送ってもらった。歩くのに訳は無いが、自動車に取って道は余り良くなかった。そこから北港に歩いていった。港とは名ばかりでフィヨルドのように岸が高い小さな入り江に小さな埠頭が有るばかり。人気は全く感じられなかった。水は素晴らしく綺麗だった。小波が打ち寄せ、滅多に感じない別世界に入り込んだような気持ちになった。SFに有るような太古の景色。その紺碧の海面に首長竜の群が獲物を追って、湾に現れても不思議な気がしないほど、色の濃い素晴らしい景色だった。

聞いていたとおり何年か前の台風で人家は全て壊れたと言っていたが、全くその通りで、まともな家は全くなかった。民宿の人の話に依ると、当時から住んでいた老夫婦が自力で家の一部を補修して未だに住んでいるとの事だった。よく観察したらそれかなあ、と思われる家が有り、見落としそうであったが確かに住んでいると言えば居そうであった。寂しいところにポツンと生活しているのを、想像すると胸が高鳴る。胸騒ぎもする。

準備をして釣り開始。カサゴ、ハタ系の魚が次々に釣れて面白かった。美しく澄んだ水の底にある岩や玉石が揺らいで見えて、魚の影など見えないのに、綺麗で元気な魚が次々に柔い竿を弓なりにする。暫くしたら雨がポツポツ降り出した。壊れた建物の屋根の下で雨宿りをした。ボンヤリ夢の中の様な景色を見ていたら、雨が少し強くなった。小止みになったら、持参の雨具を着て宿に向かおうと話していたら、車の音が聞こえてきた。朝乗せて貰った車。3人組も仕事を断念して宿へ帰るという。親切に迎えに来てくれた。

車内は少し寒かった。ちょっと挨拶をした後は誰も余り話をしなかった。

車の中で、自力で直したという家の板そのものの色が、妙に心に引っ掛かっていた。太古の景色の中で、風の音と、波の音を聞いて、俗世界から隔絶して住んでいる老夫婦、毎日何を語っているのだろうか。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年2月 1日 (金)

小笠原旅行記(9)

9.民宿の老夫婦

母島で泊まった民宿は全部で56部屋と思われた、大きくはない。老夫婦が二人だけで経営していた。最初の食事の夕食時間からちょっと他とは違う感じがした。宿に入ったときに時間の案内もなかったし、希望も聞かれなかった。勿論その時は、特段何も感じなかった。

通常自分が期待する時間になっても全く夕食の準備が出来た気配が無い。食堂に行ってみたが、厨房で準備中らしい音は聞こえてくる。仕方なく部屋に戻って、本を読んで寝ころんで待っていた。

8時過ぎに又食堂に行って様子を見たら、やっと配膳が始まりそうな気配なので、食堂に居ては、悪いと思って一旦自分の部屋に戻った。やや暫くしてから奥さんの明るい声で、呼びかけがあった。部屋の中で小さく思わず独り言を言った。「おっそいよ」

その日はどんな料理だったかは全く覚えていないが、とっても待たせた料理と言う気はしなかった。島の新鮮な材料で美味しかったけれど。

2人は母島にどんな縁が有るかは分からなかったけれど、母島に移住して民宿を始めた。東京の下町に長い間暮らしていたようだ。主人は定年で会社を退職した。奥さんは踊りか何かの芸事の師匠さんを遣っていた。主人は地味で、奥さんは明るく派手で声が甲高くいつも笑っている感じ、但し料理、掃除、その他の家事は不得意そうに見えた。そんな二人が又何で民宿を始めたかは、分からなかったけれど、民宿は繁盛していると言っていた。毎日張り切って働いて、色々な人と巡り会えて、そのお客さんに喜ばれて働くのは楽しい、と言っていた。ちょっと胸に響く。

2日目の昼食はお弁当を作ってもらった。しっかり包んであり、そのまま鞄に入れて出掛けた。貰ったときに少し重いなあ、とは思ったが、昼食の時間に開けてビックリ。使い捨ての容器にご飯が全体に入っており、おかずがその上にパラパラと塗すように置いてあった。おかずも弁当向きではなく、全体に薄味で有った。出張の時は定宿としている同宿の三人組の都庁の人で父島に駐在している方が、おにぎりが良いけれど、自分は1つにして貰っている。と言っていた。その時に半分意味が分かった気がした。

次の日はお握りにして貰った。2人分とは思えない大きさであった。彼らから見えないところで、そっと開けてみたら巨大なお握りが2個ずつ4個入っていた。まん丸で全体が海苔に包まれていて真ん中に梅か鮭が少し入っていた。ご飯に塩は足らなくこれも薄味で、今は多分平気だが、当時は結構辛かった。何か誤解が発生している風である。それとも長年の習慣なのか、何か別の理由なのかは分からず仕舞いであったが、それはそれで良い思い出だ、だからこそ今でも覚えている。

その日の夕食は現地で捕れるクジラの料理であった。やはりかなり夜遅くになってから出来た。新鮮で美味しかったけれど、刺身が主でそんなに時間が掛かるとは思えなかった。もしかしたら二人の長年の時間的習慣はそうだったのかも知れない。民宿なら夕食は67時頃開始というのは、当方の思い込みかな、と一瞬考えた。

あれから189年ほどが経った。場所も場所だけれども、妙に二人の事は覚えていて時々思い出す。暫くの間、我が家では、大きなお握りの事は、○○○ちゃんお握り(○○○は奥さんの名前)、ご飯が弁当いっぱいに入っていて、その上におかずがパラパラ乗っているのは、○○○ちゃん弁当と言う。そう言えば最近、テレビでも大きなおにぎりを見ることが無くなったなあ。

ご存命なら優に80才以上である。元気に民宿を営んでいる気もするし、引退して静かに暮らしている気もする。もう鬼籍に入ってしまったかも知れない。月日は流れた。20年何て、自分に照らしてみても、一瞬の事のようだ。あの○○○さんの甲高い「御食事の準備が出来ましたよ」の声が、今でも鮮明に思い出される。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年1月29日 (火)

小笠原旅行記(8)

8.セミの食べ方



父島から母島までは2時間余りの船旅。船は、ははじま丸、500トンぐらいで、おがさわら丸に比べたら、小舟の様に見える。黒潮に逆らって航行する為か、天候は同じように感じたが行きの方はかなり揺れた。和室というのかカーペット敷きの大広間に寝ころんで波の音やらエンジン音やらを聞いていたら、うつらうつらして、呆気なく母島に着いた。港からブラブラ歩いて数分で予約の宿は簡単に見つかった。

母島には3泊した。宿の夕食時間の顔ぶれは、滞在中いつも同じだった。その中に、中年の男性と青年の組が有った。もう1ヶ月ほど滞在している、後2週間ぐらいで仕事が終わり島を離れるとの事。少し本土で休んでから次の現場で又仕事続行。日本中を点々としているとの事。楽しそうでもあり、大変そうでもあり。

自分はそう言う仕事が有る事も知らなかったが、知っていれば目指したかも知れない。地質調査の仕事であった、ボウリング調査の仕事。

その2人組の中年の方は温厚そうで寡黙であった。3日間で聞いたことは、日本中点々として仕事している。今まで掘ったことが無い県は、23県を残すのみだ、余程のことが無ければ、数年の内に全県制覇出来るだろう。自分はこの仕事が好きだから、大変なことも多いけれど、定年まで遣ってゆくとの事。当時の自分と引き合わせて羨ましかった。今でも実は羨ましい。一生涯一貫して社会に貢献する仕事。


青年の方は、仕事はいたって真面目そうで有ったけれど、剽軽な人だった。宿に新しいメンバーが加わって少し変化が有り楽しそうであった。沖縄、石垣島出身と言うことであった。それで夕食が終わってから、お茶を飲んでいるときに、食べ物の話になって、言いかけて止めたので催促したら、躊躇気味だったけれど、話して教えてくれた。


セミの食べ方、へえそんなものまで食う、と言われそうだし、下手物食いか見たいに思われるのは嫌だけれど、実際郷里で何回か食べたことがあるし、話の種としては面白くて、結構受けそうだし、仲間が増えるかも知れないので、と言う事で話してくれた。

自分には面白かった。東南アジアで、色々な虫を市場で見ていたし、食べるのも知っていた。自分もナナフシや、バッタの空揚げを試食したことが有る。特段の違和感は無かった。蜂の子やザザムシも或る地域じゃ、普通に食べる。我が郷里でもバッタやハチの子、蚕のサナギを往年は食べていたらしい。


セミは新鮮な奴を、地上に現れて2週間で死ぬから、木に止まって横歩きしたり、バタバタ飛び回ったりする連中はみんな新鮮らしい。そいつらを捕まえて、羽根を毟る。ジージー鳴いたり、笊の上をはい回ったりする連中を、薄く油を引いて熱したフライパンでサッと炒める。その上に塩胡椒で味を調える、好みで醤油を少し加えても宜しい。まあカワエビの空揚げのようなものだ。エビほど肉は無いが、それなりに食えるとのこと。ビールのつまみでも良いし、子供のお八つにも良い。セミは沢山いるが、1ヶ所数匹で後は飛んで逃げられるから、採るのは余り効率は良くないが、林を回って歩けば、食べる分ぐらいは容易に採集出来るとの事。

ようし、今度機会が有ったら食べてみよう、とその時思って、もう18、9年ぐらい経ってしまった。

翌日、集落から南の方に散歩に行ったら、万年青浜(オモトハマ)辺りを通過した。エンジン音が聞こえて、彼らが働いている現場の近くを通った。手を振ったら彼らも手を振ってくれた。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年1月26日 (土)

小笠原旅行記(7)




7.レストランのマスター(2)





この後店を閉めて、植物見物に山の方に行くという事で、誘ってくれたので同行して各種の植物を見た。マスターと奥さんの案内付きである。森に入るまでは車でいった。ヘゴの大木や、グァバの木とか、亜熱帯らしい木も沢山見た。勿論バナナもあり、実が生っていた。

楽しい数時間であった。その時は又、やや落ち着きのない軽い感じの独り言の様な、話し掛けているような元のオッサンに戻っていた。料理との格差が余りに大きく植物を観察して森の中を歩きながら終始ニヤニヤしていたが、彼には自分が楽しくてニヤニヤしているという良い意味に誤解されて感じられていたと思う。

今は知らないが、当時は父島にも他の幾つかの島にも持ち込まれた山羊が野生化して、自然草木の食害があり、捕獲作戦を実施しているようだった。森の中を歩いて、開けたところに出たとき、小さな山羊の群れに出くわした。マスターは「捕まえるぞ」と張り切って追い掛け始めた。突然の事で要領を得なかったが、自分も協力して二人で追い掛けた。良いところまで行ったが、ギリギリのところで、もう少しだった一匹がスルリとマスターの手から逃れ、もう我々の及ぶところではない荒れ地の方に逃げおおせた。マスターはかなり悔しがっていた。

マスターはお店に小さな植物園を作るほど、植物は好きだし、山羊も排除したいとは思っているのは分かるが、自然の中を歩くときは、何となくとっても無頓着のように感じられた。

別の日にも、そこで昼食を取った。メニューは違っていたが美味しかった。植物園を直すので、手伝ってくれと言う。どうせ暇だし、高いところにいるマスターに板を差し出したり、重い物を動かしたり、指示のままに手伝った。暫く手伝って、お茶で終了。帰ろうとしたら、封筒を渡そうとする。お礼のつもりのようだった。謝辞したが、どうしてもと言うことで受け取った。後で見たらやはりお金だった。父島でアルバイトをしてしまった。

その時、貰ったタコノキの種を東京で撒いた、まあアダンですね。良く発芽してその夏は、濃い緑の葉が、数十センチに伸びて、楽しめた。数年、越冬の時は部屋に入れて、真夏は強烈な東京の日を当てて楽しんだが、その内段々元気がなくなり、当方も管理を悪くして、その内絶えてしまった。タコノキの話題の時はいつも小笠原や、マスター達の事も家人と思い出して話をしていた。

はっきり覚えてはいないけれど、奥さんは父島に縁があって、マスターは遊びに来て居着いたようなことを言っていた気がする。あのマスター、奥さんどうしているかなあ。自分よりちょっと年上だったけれど、元気でやっていたら、嬉しいなあ。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年1月22日 (火)

小笠原旅行記(7)




7
.レストランのマスター(1)



自分達が小笠原に行ったのは閑散期だったと思う、多分夏休みとか正月が繁忙期なのだろう。島の中に観光客らしい人は少なかった。食堂も多分閉まっているのが結構あったに違いない。宿の近くで比較的広い食堂が有った。昼は定食屋で夜は飲み屋という感じのお店だった。繁忙期は若い人達で賑わっていそうな感じだった。

初めて入った昼にお客は我々以外に1人もいなかった。マスターは店の一角を占めている小さな植物園の手入れをしていた。奥さんは奥の調理場から出て来た。良く散歩していた人達でしょうと、声を掛けてきた。気さくで親しみやすく感じが良かった。マスターの方は、ちょっと軽い感じで独り言のような、話し掛けているような、おまけに少し落ち着きがない。

店内を見渡して昼食のメニューらしいものは無かった。その日のお勧めにも何も書いていなかった。困ったなあと思っていると、マスターが魚が有るから、それにしようかと言う。魚が途中で鮫に食われて傷ついている。逆に味は良いと思うよ。特段あれと言う食べたいものが有ったわけでは無いので、それにして貰った。値段は1000円にしようと言う。ちょっと訳が分からないが、1000円でまあまあの昼食がたべられるのだから、良いでしょうと言うことで、カウンターに坐って黙って待っていた。

その間、奥さんが、お水を出したり、片付けたりしながら、父島に何しに来たかというので、自然の中をブルブラ散歩したり、街並みを探見したり、景色を見たり、ゆっくりしに来た、と言ったら珍しがられた。大抵の人はダイビングとか、釣りとかその他ハッキリした目的があると。こっちだってハッキリしているのだがなあ。

マスターは何か良く聞き取れなかったが、一言二言言って、厨房の中に入って行った。立ち働く音が聞こえてきた。

暫くしたら大変豪華な刺身定食が出て来た。ツマには白砂青松がダイコンの千切りとキュウリで作られていて、見た目にも誠に美しいものであった。マスターの言動を見て大丈夫かなあ、と思っていたが、小鉢も汁もご飯も香の物も勿論刺身もとても美味しかった。大満足であった。自分の料理には厳しい目と自信に満ちた提供が感じられた。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年1月19日 (土)

小笠原旅行記(6)



6.マイマイ街道

貝類は好きだ、勿論食べる方で。イカ、タコ、貝類、その他軟体動物、と言ってもあまりいないなあ、ナマコ、ホヤ、クラゲ程度まで。イソギンチャクもウミウシも食べたことは無い、食べたくもないが。甲殻類より軟体動物の方が好きかも知れない。

ずっと昔、上司に連れられて上品な多分、ある種のクラブに連れて行かれて、エスカルゴを食べた、と言うより食べさせられた。カタツムリ何ぞは食べたくなかったのだけれど。「凄いですね」「一度食べてみたかったんですよ」などと、心と反対の事を言って食べたが、ニンニクとバターの匂いばっかりで特段の感動はなかった。勿論残さずに食べた。後にも先にも食べたのはその1回だけ。自分としては縄暖簾をくぐって、ちょっと贅沢が出来たならサザエの壺焼きで一杯と行きたいね。

上司に連れられてお上品な所に行く前に沖縄へ行った事が有る、上司とではなく友達と。そこで生きたアフリカマイマイを見た。友達が断定的に「触ると脳髄膜炎になる」。下手な兵器よりよっぽど危ないなあと思った。殺さないで手足だけ吹っ飛ばす対人地雷のようなものだ。ちょっと調べたら確かにこのカタツムリ病原体の中間宿主だとの事。昔は知らないで食用の為に輸入して養殖していた。食うよりも畑の作物を多く食われて結局は害虫になって良いことは無かったようだ。

昔は今より貧乏でカタツムリでも無いより増しみたいな時代だったのだろう。今の感覚で先人の努力を簡単に計っちゃ駄目だろうと思う。

小笠原で散歩していて開鑿したばかりの無舗装の砂利だらけの道を歩いた。何か踏んだら砕けると思って足下を見たらアフリカマイマイの累々たる貝殻。大発生してマイマイ自身が脳髄膜炎に罹って死んだか。

小笠原のアフリカマイマイはジャワ島から導入したと言うから、この街道はジャワ島に通じて、それは又直接かどうかは兎も角アフリカに通じている。そもそもこのカタツムリをアフリカの人達は食べていたのだろうか。アフリカマイマイが食えるならジャパニーズマイマイも食える気がするが、実際タニシは食っているし、そう言えば、これも1回だけ食ったことがあるなあ。

今はお金が一杯有って食料を自由にふんだんに輸入しているけれど、主要食料は地産地消が原則だと思う。今は買えても30年後に買えない事態が発生する可能性もあるし、今だって、売っている地域の人でも喜んでいるのは大地主だけかも知れないし。商社やバイヤーはその時の利益が有れば何でもするだけだから、3050100年の計は言うだけ無駄だから、政府は将来の国民の為にしっかり考えて、ダイレクトコストだけで考えないでしっかりして貰いたい、と柄にもなく考えた。

あの害虫が数十年後に小笠原の主要食糧の1つになっているなんて言うのは悪夢だ。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年1月17日 (木)

小笠原旅行記(5)



5
.逆ヒッチハイク



二見港の近くに、つまり町の中心地に宿を取っていた。あちらこちらを歩いた。特段の目的が有ったわけでは無いので、気楽に観光スポットを巡り歩いた。日射しが無く、風が吹けば少し肌寒さを感じたが、日が差していれば誠に快適。自分達は裸足で海岸線を歩いたり、脛ぐらいの所まで海に入ったりはしたが、泳がなかった。ダイビングやその他のスポーツをする柄でもないし。

宿から弁当を作ってもらって出掛けたり、開いている食堂を確認しておいてそこで昼食を食べる予定で歩く場所を決めたり。島中を歩き回った。全て初めての景色で気分良く歩き回った。亜熱帯の明るい景色を見ながら、貸切の様な島を心が解放されて歩き回った。

島に来る観光客は釣りやダイビングの人、当時有ったかどうか覚えていないがホエールウオッチングなど、かなり目的的な訪問者が多かった。自分達のようにフラフラ島中を歩き回る連中は少ないように見えた。実際長い見渡しの良いところでも前後に歩いている人が、全く見えないこともざらであった。

ヘビが居ないと言うのは知っていたので、ジャングルのような所に細い路が有ればドンドン歩いた。他の所では藪でガサッとすればゾッとするが、小笠原では安心して何処でも歩けた。

あちらこちらで、道を歩いていると、車の人から声を掛けられた。~~まで歩いて行きます。と言う返事が多かったが、戻りは~~(宿泊している宿)までと言うと、乗らないか、とい誘いが多かった。何回か乗せて貰った。在り来たりの雑談が多かったけれど、~~に行ったか、~~は見たか、と言うことで、自分達には新しい情報が多く与えられる事が多く大いに感謝した。

3日目だったか、散歩中に車に拾われて、ウミガメの保護と飼育をしている施設に連れて行ってくれた人が居た。その人が施設の人に紹介してくれた、親しそうだった。親切に説明して貰いながら、色々な大きさのウミガメを見た、触ることも出来た。その日の昼食に料理屋風のところでウミガメの刺身を食べた。美味しいと思ったが、その時は今一釈然としなかった。保護飼育とは別に、生存捕鯨と同じ様な決まりで、制限以内で獲って食べて居るようだった。

道路を歩いていると車のスピードを緩めて近づいてきて、止まり声を掛けてくれる。まあ言うなれば逆ヒッチハイクである。ちょっと違う話題のある人と雑談をしたいと言う気持ちも有るように後で感じた。親切にして貰いちょっと変わった経験をしたレストランで、良く散歩していた人でしょう、と言われた。こちらは特に気にも留めていなかったけれど、村の人達で、我々に気付いていた人も居たようだった。村の人は親切である。そう言う意味でも小笠原は良いところだ。台風の時などは、助け合って困難を乗り切っているのだろう。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2013年1月15日 (火)

小笠原旅行記(4)



4.岸壁の辺り




 おがさわら丸が、竹芝との往復で戻ってくると港の辺りは大いに賑わう。自分が降りた時には、そんなには感じなかったけれども、岸壁で遠巻きに見ていると船が居ないときと、入港したときの落差が凄いことが分かる。傍に居ればそれだけでウキウキした気分だ。乗降客もさることながら貨物が陸揚げされて少なくなっていたスーパーの棚が商品で一杯になるのを見るのは自分が買わなくても嬉しい気分だ。町に居て物流が見えないところで行われていると、有難みは少ないけれど、おがさわら丸に依存している島の物流はハッキリ見えて有難みを実感する。

生活の周期は仕事と休みとか学校と休みより、おがさわら丸の入港日を節目として動いている様に感じる。ものの往来、人の往来、生活のリズム。離島に行ってみないと感じられないある種の生活実感。

隔絶された地域と連絡する業務をしている人達は、きっとそれだけで他の仕事よりも充実感が有るのだろう。目には見えないけれど、物流の陰で支えている人達も、特に気を入れて仕事をしているように感じる。次々に便が有るところなら慣れてしまうと言うこともあるだろうけれど、便が少ない場合は、それを逃したら次までは長い。心待ちにしている人達の要望に応えたい、これこそ仕事の原点だよなあ。最後にやっていた俺の仕事、あれは何だったんだ。

宿の近くの二見港を始め、岸辺を見て歩くと魚が沢山いて水族館の様で見飽きない。大きなミノカサゴが海底近くをフワフワ泳いでいる。何カ所でも見ることが出来た。イトヒキアジ、カワハギの稚魚、底を泳ぐオジサン系の魚。水も海底も綺麗で全く見飽きない。そう言うところで生まれ育つと、横浜当たりの海岸線を見たらガッカリするだろうなあと思う。それでもそれはそれで直ぐ慣れて、特段気にしないで新しい生活に馴染んでゆくのだろう。

或る夕方岸壁の近くにいつもより人が多くいたので吸い寄せられて見に行った。数人の釣り人が居て、その何倍もの見物人が居た。何キロも有るシマアジが釣れている。一帯で56匹は揚がったようだ。自分が見ていたオジサンは人なつこそうに近づいてきて、軽トラックの荷台に載せてあった5キロぐらいの大きなシマアジを見せてくれた。時々回ってきて釣れるので、その時はこうして来るのだと、楽しそうに語っていた。見ているときに次の1匹が釣れた。それも可成りの大物だった。彼はもう今日は良いからと言って、軽トラックに乗って帰った。その時は向いた竿も無かったけれど、竿を準備しないで、もう暫くそこらを彷徨いて見ていた。それだけで十分楽しめた。その地独特の楽しみ。

後年自分も沖縄の離島の岸壁で大きなシマアジを釣った事がある。見物人は居なかった。

又ある時、そこら辺りを散歩していたら、飛行機の爆音らしきものが聞こえてきた。興味を引かれて良く見たら、救難飛行艇であった、旧海軍の飛行艇の写真を見たことが有るが、形は当然ながらかなり似ていた。二見港の東南側に上陸地点が有った気がする。海上に降りるので、滑走路は要らない。最後は陸上に上がる。

偶々近くに居た人と話す事が出来た。島の病院で駄目なときは、重病救急患者を東京に空輸するとのこと、どんな基準かは不明だったが、島に暮らす人達の安心感は大きそうだった。今はもっと進展していると思うが、当時は要請に基づいてその水陸両用の飛行艇が、岩国から1300キロ飛んできて、数分で患者を収容して東京に1000キロ飛んで、病院に引き渡して900キロぐらい飛んで岩国に戻るという話だった。こういう話を聞くと嬉しくなる。幸せを作る社会の費用、目の前のコスパなんて関係ない。

話してくれた人とは、成り行きで暫く、雑談をした。当日は非番であったが、自衛隊員のようだった。希望して父島に来たらしい。当時の自分よりかなり若かった。村の事が色々分かって、面白かった。1つ印象に残った話が合った。

或る少年が、半ばぐれていたのだが、彼が声を掛けて、何回か“説教”したら、立ち直って、今は明るく手伝いや勉強、部活など頑張っているらしい。その少年は、何をしても自由で、誰も干渉しなくて傍目には良いのだけれど、強い孤立感を抱いて居た。その青年から、真面目に怒られて、生まれて始めて、しっかり自分の話を聞いて貰って、嬉しかったとの事。ありがちな話だけれど、自分には沁みる話だった。大抵、人はそんな事には当たり触らず、無視とは言わないが、無関心で通り過ぎちゃうんだよな。会社でも学校でも、問題は直接関係なければ、無関心ということじゃ無かろうか。今の世の中、形だけで、親身じゃない奴が多い。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧