2008年9月22日 (月)

歩道の縁に

2ヶ月ほど前に我が町で恒例の阿波踊りが有った。暑い日だった。金、土の二夜に渡って行われた。

始まる前に駅に降りた。駅前から踊り会場になる道路は通行止めである。発電機とセットになった照明があちらこちらに有って、街はとても明るい。裏通りからは鉦と太鼓の音が聞こえる。弾んだ雰囲気。暑い空気。焼きイカや焼き鳥、おでんの匂い。ビールを注ぐ音。人々の話し声、交通整理の笛。

ああ夏だ。

道路も歩道も未だ昼の熱気が籠もっている。歩道の縁に敷かれたシートの上に、子供達が座っている。子供達が焼きそばを食べている、たこ焼きを食べている。ジュースを飲んでいる。子供達は浴衣を着ている。子供達は甚平を着ている。そんな子供達のグループが沢山ある。俺たちもみんな昔は子供だったんだ。

家に帰ってシャワーを浴びて、浴衣を着て街に出た。久しぶりに下駄を履く。空いた歩道の縁に薄いレジャーシートを敷いて座る。焼きそばを食べる、たこ焼きを食べる、焼き鳥を食べる。自分はビールを飲む。阿波踊りが始まった。次々に連が通る。幸せな一時。もう一杯ビールを頼む。

ああ祭りだ、夏だ。

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2008年9月16日 (火)

家族で動物園

1年に1回程度は上野動物園に行く。都民の日と休日が重なった日なら、可成りの確率で行く。ブルブラコースに従って園内を見て回る。その時気に入った場所が有れば暫く留まる。贔屓の動物が何種類か居るのでそこには暫く留まって彼らを見ている。近くにベンチが有れば尚良い。隅々を歩き回れば、それなりに何時も発見が有る。

東園と西園つまり高台の方と平地にある方を結ぶ通路に有るベンチは空いていれば必ず坐って休む。色々な人々が歩いている。都民の日ならば、それ以外の日より大勢の人がゾロゾロ、ゾロゾロ歩いている。それを見るのも楽しみだ。色んな意味で色んな人が歩いている。当方は、向こうから見れば貧相なオッサンが座ってデイバッグに手を突っ込んでジャンクフードを食いながら、ペットボトルの飲物を飲んでいるのは、風景の様な物。ジャンクフードを溢すと鳩が目ざとく見つけて啄みに来る。良く見ている。

ベンチに坐っていると、子供と目線の高さが同じになる。子供はこんな景色を見て居るんだと思う。子供は遠慮無く人の顔をジッと見つめるので、そんなジロジロ攻撃に遭っても知らんぷりが出来るようにサングラスを掛けている。

そんなある時、もう20年ぐらい経つけれど、夜間英会話学校の同級生を見た。自分より56才下だったかなあ。辞めてから56年後だったと思う。

奥さんと2才程度の子供と一緒だった。白いテーブルと椅子が沢山置いてある休憩所。幸せそうな家族。声は掛けなかった。何か邪魔をしそうな気がして、又ちょっと気後れがした。未だ当時の顔は覚えているけれど、彼の名前は忘れてしまった。彼ももう可成りのオッサンのはず。時間は無常にも?若しくは情け深く?兎も角経過する。自分は、折に触れて、例えば英会話学校の有った駅を通ったり、上野動物園に行ったりすれば彼の事を思い出す事も有るけれど、彼も自分の事を思い出すことも有るのだろうか。

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2008年9月 4日 (木)

エスカレーター逆走

1ヶ月ほど前に東京国際展示場で登りエスカレーターが搭乗者の重みに堪えかねて(多分)どっかが壊れて逆走した。10人ぐらいが怪我をした。甚大な怪我人が出なかったことは、不幸中の幸いだった。

あれからテレビとネットのニュースを注意深く見ているが、事故の原因が発表されたようには思えない。原因と言っても警備員の制止に注意を払わず有りっ丈の人が乗ったという方の事故の原因ではなくて。機械の一部が想定以上の力が加わってドコドコが折れたとか、それでブレーキが利かなくなったとか。手抜き工事だったとか。何か最初の報道が大上段に構えていた割りには、自分が興味を持っていた事柄に対する続報は無かった。

地下で火災が発生したりすれば、最寄りのエスカレーターにはあれぐらいの人が一時に乗る事って普通に有ると思う。転んだり押しつぶされたり、あれより酷いことも結構ありそうだ。エスカレーターって柔な物なのだろうか。

最初の報道も、少し考えすぎの様な気がするけれど、乗り合わせた人達が、限定フィギュアの展示即売会場に行く人達と言うことで、まあ一種のオタク、報道の仕方がちょっと冷たい気がした。「どうせ、オタクだし」って言う報道姿勢。そう感じた人は他の事故報道より多かったと思う。

海外の大事故の報道で日本人が含まれているかいないかと言うことは、自分も第一に気になるところだけれど、「日本人は含まれていない模様です、それじゃ次のニュース」って失礼な話だよね。

アジアだけでも毎日、貧困や天災、暴動や破壊活動で多数の人が亡くなっているのに、余りにも報道が少ない。もうちょっと世界の日常的な状況事件事故を報道してほしい。自分達は周辺の事を知らないし知って何かをする気もない、自己中に成っている気がする。

最近アフガニスタンで亡くなった方のように、高邁で無くとも、報道がもっと多ければ、月千円ぐらい寄付する人は多いと思う。

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2008年9月 2日 (火)

じぃじばぁば

多分、10年ほど前から使われるようになったと思う。まあ一種の幼児語だろう、幼児語と言っても大人が教えた言葉。じぃじはお爺さんまたは爺の。ばぁばはお婆さん、または婆。

この言葉に違和感の無い人もあろうし、そうでない人もあろう。お爺さま、お爺ちゃん、お婆さま、お婆ちゃんという良い言葉が有るのに、ワザワザ作り出す事は無い、とい人もあろうし、短いし親しみが有って良いと言う人もあろう。

幼児が言うのは良いが、呼ばれるご当人が自称として使うのはどうかねえ、と言う人もあろう。ゾッとしていたのに、自分がそれで呼ばれたらその日からご機嫌で自称でも使うじぃじやばぁばが居る気がする。

小さな孫にお爺さま、お爺さん、お爺ちゃん、爺ちゃん、じぃじとか呼ばれて、返すときは、自称でお爺さまは・・・とかでOKと思うが、孫が小学生ぐらいに成ったら、通常使っている自称、例えば、「わたしは」を使った方が自然の成り行き、と言うものだろう。

じぃじ、ばぁばについて、私の感想?

一切れのパンのために信仰を捨てた聖職者。

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2008年8月29日 (金)

駐輪禁止

最寄り駅の南口の狭いロータリの前にドラッグストアとハンバーガーショップが有る。その前に大きな看板が有り、「駐輪禁止」と大きな字で書かれている。その前に自転車がビッシリ止めてある。

俺にはとても出来ん、勿論する気もないが。

今駅前再開発で、全体的に手狭だ。そこに自転車が沢山止めてある狭い歩道。もうちょっと何とかならんものだろうか。坂道だし、バリアフリーにも成っていなし、視覚障害者誘導用ブロックも無いので、車椅子や視覚障害の人は歩ける街じゃないが、老人子供はおろか、元気な青年だって乱雑な自転車に引っ掛かって歩くのが大変だ。

そんな所で、朝駅に向かう人がゾロゾロ居るのに、旗を立て、歩いている人にパンフを配って市会議員が高邁な福祉理論や国際政治の話をされても鼻白む。目の前のチャリが見えんらしい、歩道が狭く感じられないらしい、子供や老人、各種障害者の難儀が見えないらしい、設置されていない視覚障害者誘導用ブロックも想像できないらしい。

俺にはとても出来ん、勿論する気もないが、と友達が言っていた。

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2008年8月25日 (月)

朝のファミレス

近くにファミレスが出来た。まあ住宅街の真ん中だと思う。朝に行ってみた。東京で朝にファミレスに行ったのは、初めて。ビックリした。自分達以外全員一人で来ているオジサン。自分が居る間に何人も来たがみんな一人で来たオジサン。見たところ全員60歳代。朝食を食べて、ドリンクバーで何かを飲みながらゆっくりする人もあれば、食後コーヒーをサッサと飲んで直ぐ帰る人もある。60歳代のオジサンが来ては帰る。帰っては次が来る。又次が来る。

行ったのは土曜日の朝。何か色々なことを想像してしまった。

奥さんは昨日のカラオケ疲れで寝ている。奥さんは友達と山へ行った。奥さんは友達と旅行に行った。奥さんはパチンコに行って並んでいる。奥さんは地域の行事に参加している。奥さんは実家に帰った。奥さんは孫の世話で出掛けた。奥さんは息子の新居へ出掛けた。奥さんに相手にされない。奥さんが家を出て行った。こんな事ばかりじゃないだろうけれど、オジサン全員に何で1人で来ているか、アンケートを取りたいぐらいだ。

暇なので見える範囲で観察していた。みんなムッツリしている。自己に没頭している。ウエイトレスにニッコリする人は一人も居ない。最低限度の事もやっと言う。勿論有難うと言う人は居ない。みんなとても暗い。ファミレスの中に話し声は全くしない。静かで良いけれど。時々ウエイトレスの「いらっしゃいませ」だけが虚しく響く。こちらはオジサンを見て楽しんで、朝食後、ドリンクバーを5杯も飲んでしまった。

きっと時間によって、お客の相がとても違うんだろう。今度は夜中に行って見よっと。

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2008年8月21日 (木)

停電

数年前に強烈な低気圧が外房をかすめて北上したとき、千葉や茨城で電柱が何本かなぎ倒された。その影響で長時間広範囲に停電地域が発生した。我が外房の隣人のお宅も停電に見舞われた。夜半揺らめく蝋燭の光の中で台風の様な暴風が家を揺らし、雨が壁や窓に打ち付けた。二階の寝室は余りにも揺れて、落ち着いていられず、一階で1人朝まで過ごしたとの事。電気が有れば老人の友達、テレビを見て過ごせたのだが、その電気が無かった。気の毒なことだった。

彼には大いに同情した。嵐の後で、自分の庭には、何処からか飛んできたプラスチックの波板の破片やら、小枝やらがいかにも嵐の後と言う感じで散らかっていた。

田舎に居た子供の時、台風や大きな低気圧が近くを通過するとよく停電した。夜に通過するときは、早めに夕食を食べて、早めに寝た。枕元には懐中電灯を準備した。夜中に嵐の音で目が覚めることが有っても、暫く暗闇の中で聞いているだけで又寝入った。

最近は停電に遭ったことが無い。何かの大きな工事で予定停電と言うことも少なくなった。世の中は便利に成ったけれども、ひとたび停電に成れば自分が子供の時より余程酷い気がする。

偶々隣人から長時間の停電の事を聞いて、停電の時の事を考えて有って当たり前の電気の事など忘れていて、有ることの有り難さについて思ったことはなかった、でもまあよく考えてみれば、世界には、いつも停電というか、電気が無い村なんてざらだ。

我々は今更原始的な社会に、若しくは只電気が無い程度の昔に戻って暮らすことは出来ないけれど、今でも電気が無い所に暮らしている人達に比べて、我々がより幸せだと言う積極的な理由を探すのは結構困難な気がする。

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2008年8月13日 (水)

暦の上では

秋ですが、暦の下では夏真っ盛りです。

太陰暦(旧暦)から太陽暦(新暦)に変更するのは自然の成り行きだったろうけれども、変更して2030年ぐらいの内に、矛盾点は概ね出尽くしただろうから、それ成りに良いところを生かして新太陽暦に組み込めば良かったのに、未だにトンチンカンな事を平気でしている。

社会全体に余裕もなかったし、ゴチャゴチャでもそんなに生活が混乱するわけではないけれど、もう切り替えてから100年以上経つのだから、それなりの部署の人は、現実の暦に旧暦の季節感を反映する方法を考えた方が良い。暦の所轄官庁は文部科学省か国土交通省かどちらかだろうけれど多分、天気予報で毎度、『暦の上では立秋となりましたが、暑さは当分続きます』みたいなことを平気で言わせているのはどうかと思う。

8月初旬と言えば無茶苦茶な不順天候でない限り、真夏も真夏の夏真っ盛り。それに旧暦7月の立秋を無理矢理引っぱってきて、新暦の裏に隠して置いて『暦の上では立秋となりましたが、暑さは当分続きます、これからは残暑と言うことになります』って言うのはどうかしていると思ってしまう。言っている本人も釈然としないだろう。

簡単に旧暦の良いところを新暦に練り込んだり、旧暦に合った年中行事をすんなり新暦に嵌め込んだりは出来ないけれど、お座なりに一月遅れで遣っちゃうとか、断り無しに新暦旧暦ゴチャに使っていたずらに混乱を助長するのは止めてほしい。

六曜も旧暦から無造作に新暦に嵌め込んで使っているから、実に不思議な動きになっている。気にする人でもそれが気になる行事は年に数えるほどしかないから、無頓着に使っている。寛容、大雑把どちらにしてももう少し分かりやすい方が良い。

所轄官庁と暦研究者と雑多な外野を交えて今流行のコラボで国民に使いやすく季節感、年中行事が実際の季節やら実感に合うように、新暦、旧暦のコラボを実現してほしい。

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2008年8月 7日 (木)

嫁、婿

ここ数年の流行なのか、自分の妻のことを、嫁と言う人が多くなってきた。若い人のみならず、テレビを見ていると40代の人も自分の妻の事を嫁って言っている人が居る。自分は今一馴染めない。何年かすれば流行の発信元が特定されるかも知れない。

もう相当前から違和感は無くなったが、最初の内、自分の妻の事を「うちの奥さん」と言う人に驚いた。奥さんって多分奥様のちょっと砕けた言い方だと思うが、今でも多分うちの奥様って言ったら、相当前後がハッキリしていないと、その人の奥さんか、その人が仕えている人の奥様か判然としないと思う。

未だ聞いたことはないが、その内、若い女性が、自分の夫のことを「うちの婿」と言い出すだろう。勿論特段の意味はなく単に夫という意味で。その内40代、50代の人もうちの婿がと言いだし、一瞬その人の夫の事を言っているのか娘婿の事を言っているのか分からなくなるだろう。

言葉は変遷して暫くすれば落ち着くところに落ち着く。ちょっと無理してでも、新しい使い方か、新しい言葉を作って、世の中が滑らかに成れば良いと思う。

咄嗟の時に、まあ簡単に言えば、人混みの中で何かを落とした人を見かけたときに、呼びかける言葉がない。坊さんなら、「お坊さん」、侍なら、「お侍さん」、水戸黄門なら、「黄門様」とか呼びかけられるのだが。

ベストアイデアという訳ではないが、叩き台として、僭越ながら国立国語研究所の代わりにちょっと考えました。

「奥さん」:既婚未婚に関わらず、大人の女性なら全て、勿論相当のお婆も含む。

「お嬢さん」:アバズレも学生も、「奥さん」以外の女性全て。

「旦那さん」:プータローも、大人の男性なら全て、勿論クソジジイも含む。

「お坊ちゃん」:汚いハナタレも、「旦那さん」以外の男性全て。

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2008年8月 5日 (火)

脅し文句

と言ってもそれなりにシリアスなのではなくて。

昔、相当、かなり昔、言うことを聞かない子供に対するお母さんの脅し文句の常套句は「お巡りさんが来るよ」とか「歯医者さんに連れて行く」だったと言われていた気がするが、自分は一度も現実には言われたことがない。勿論良い子だったと言う訳ではない。

自分が生まれ育った所では「もうこがくる」凶暴な幽霊のような悪鬼のようなそんなものの集団を連想した、後で分かったことだが「蒙古軍が攻めてくる」、つまり元寇の遠い記憶ですね。自分の姪っ子にちょっと効果が有ったのは「なまはげが来る」だった。きっとなまはげが相当印象強く心に刻まれてしまった物と思われる。

お宅によっては「お父さんにお酒を飲ませるわよ」なんて言うのもそれなりに効果が有りそうだ、又お宅によっては「お母さんにお酒を飲ませるわよ」どっちにしろ、ちょっとブラック。

「惚けてやる」、これには脅し文句返しが有り「もう充分惚けているよ」、そしたら切り返し「惚けるだけじゃなくて、失禁してやる」、きつい冗談?かなり親密な良い関係の親子か夫婦じゃないと中々言えない。そんな関係じゃなくて言い合っているならもう家庭崩壊の一歩手前だろう。

「ぐれてやる」これは親から子でも、子から親へでも使える。自分なんかはボヤーとしていたからぐれかたがよく分からなかった。(影の声:充分ぐれているよ)

大学受かってやる」、確かに普通の家庭か貧乏な家庭で「聖~~医大」とかに受かったら、結構問題有るなあ。借金して頑張って卒業はしたけれど、医者の国家試験が受からなかったら見たいな。

「俺だけれど、会社の金、横領しちゃって~~」こんな簡単な文句で、被害者に成るのも気の毒だけれど、本当の息子なら、被害に遭うよりもっと悲惨、多分。

ずっと昔、脅すつもりだったのだろうけれど「闇夜の晩ばかりじゃないぜ」とのたまった人がいたらしい。聞いた人は目が点に成っただろうなあ。

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2008年8月 1日 (金)

豚捨て男

23週間前に、『ミニブタ捨てた男を書類送検、食欲旺盛に「飼う自信なくす」』という記事が有った。動物愛護法違反と言うことらしい。

気の毒なことをした、勿論豚に対して。人の方は多分、十分反省していると言うことで不起訴か悪くても数万円の罰金を払えば済むだろうけれど。豚の方は証拠品として(証拠豚として)警察に連れて行かれて、警察でも処置に困るだろうから、保健所に引き渡されて、あの世行き。

本音だけの社会じゃ生きにくかろうから、食糧不足の所に動物タンパク質として寄付しろとは言わないけれど、犬猫その他動物が年間100万頭以上処分されて焼却されているらしい。二重、三重の無駄な気がする。

犬猫その他動物も、輸出入に目を光らせるだけではなく、遺棄が激減するようにやり方を考えた方が良いと思う、例えば原付バイクのように登録と抹消を義務づけて、抹消が無ければ、高い税金が継続的にかかるとか。それじゃ貧乏人はペット飼って癒されることが出来ない、とか色々議論が出るだろうけれど。

食糧危機は思う以上に迫っている。これからもずっと処分される動物が減らなければ、その内第三世界の食糧危機救済の一環として、それからソイレントグリーンが出来るだろう。

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2008年7月27日 (日)

成人式の場所

自分の成人式は昨日の事の様でもあるが、実際は相当昔の事である。3箇所で行った。

地元では、夏、場所は公民館の体育館。国語の辞書を貰った。分からない言葉は直ぐに調べて勉強し、正しい言葉遣いで社会に貢献しなさい、と言う意味だったとも思えないが、比較的簡便な辞書で時々暇潰しに読書するのには向いていた。

当時の住所地からも招待状が来た。冬、成人の日にその市の中央体育館。安ものの判子入れセットを貰った。印鑑を使う機会も増えるだろうから、自覚を持って使う様にと言う事にも思えなかったが、暫く引き出しに入れて使った。

職場では、冬、講堂。訓辞、「諸君は社会に貢献する資格と機会を与えられたのだから、しっかり頑張りなさい」みたいな単純明快だった様に記憶する。

今、成人式はどんな所で行っているのか。多分特殊な伝統が有るところ以外は、自治体の体育館が多いと思う。テーマパークで行っているところも有ると聞く、これについては主催者には真意を参加者には感想を聞きたい。

一般的な報道の印象では、激励、祝福の言葉や記念講演を全く聴かない。私語、携帯電話が横行する。成人式の周辺業界の反対で式を止められない。

成人式も結婚式や葬式等と同じ重要な通過儀礼なのだから、騒ぐのは、もってのほかであり、私語、携帯電話で、講演の内容が全然聞き取れないとは情けないことだ。でもまあ、これは大人の鏡だろう。小中学校の参観日に教室の後ろに居る父母が私語、携帯電話、中座、高笑い、等をしているのを見て育てば、ま、或る意味しょうがない。

これから成人式は、出身地でも住所地でも良いが、小中学校か、養護学校、老人ホームなどで行い、児童生徒や老人達と一緒に構内外の清掃や食事の世話、勤労奉仕をすれば良い。参加者が激減する可能が有るけれど、それはそれで、しっかり考える機会に成るだろう。

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2008年7月25日 (金)

最高級天然木炭

BBQの季節である。子供が夏休みに入った。お父さんも夏休みを取って、お母さんも夏休みを取って、家族みんなでキャンプに出掛ける。勿論BBQをやる。キャンプはしなくとも日帰りで奥多摩に行ってBBQをやる。金持ち会社は高級リゾートへ社員旅行かも知れないが、普通の貧乏会社は、近場の海か山へ行ってBBQをやる。兎も角BBQの季節なのだ。

昔と違って今、炭を炊事や暖房に使っている家庭は無い。有るとすれば余程の金持ちか、風変わりな人だ。それでBBQをするとすれば、荒物屋で一俵の大きな炭を買う必要は無いから、大きな雑貨屋(もしかしたらホームセンターというかも知れない)へ行って、小さなカートン入りの炭を買う。高い備長炭なんかは売っていないから、安いマングローブ炭を買う。ご心配無用、自然破壊には、成らない。東南アジアの人達も馬鹿では無いから、鵞鳥の腹を割いて金の卵を一度に全部取ろうとしたりはしない。ヒルギを適当に伐採して炭を焼き、一巡して元に戻れば、マングローブは元の様になっている。永久に炭が焼ける。

300円で3Kg有る。想像を絶して安い。炭を焼いている人達は、日本でどの様に売られてどのように使われているか知らない。彼らは何の役にも立たなかったマングローブが安定した現金収入をもたらす物となって、喜んで働いている、多分。

この間、炭を買いに行ったら「最高級天然木炭」と印刷してある段ボール箱を見つけた。早速喜んで買った。最高級は、屑炭は混じっていません、太くて長いのばっかりです、位の意味だろうけれど、天然木炭ってどう言う意味? 天然って普通、人為が加わっていないこと。自然のままであること位の意味だろうから、一瞬、山火事でも起きて自然に出来た炭かいなと思ったが、勿論そう言うこっちゃ無い。単に天然とか自然とかが好きな我々のために使った修飾語だった、と思い当たった。強いて理由付けすれば、人工林でなく勝手に生えてくるヒルギを使って作った炭でっせ、程度の意味だろう。天然の木炭ではなく、天然木の炭。

瓶詰めの水に~~の天然水とか有るが、あれと同じ。逆の~~の人工水というのはほぼ無いから、無意味な形容詞。それとも濾過したり殺菌したりしたら人工水というのだろうか?まさかねえ、自分は人工水と言ったら水素と酸素を反応させて、つまり燃やして出来た水でなければ人工水と言えない気がしていますがねえ。

富士山から湧き出た天然水も最高級天然木炭も罪が無いから良い、殆ど反対概念の無い無意味な修飾語に惑わされるのも一興。最高級天然木炭で楽しいないしは楽しいふりをするBBQ

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2008年7月21日 (月)

福原橋の桑

外房の某市に岬町という町がある。その町を流れている川に福原橋というちょっと変わった橋が架かっている。車道橋と人道橋が親子の様に並んで架かっている。福原だから名前も良い。多分、昔の橋を現在の橋に架け替えるときに、人々の通行の便を考えて人道橋を作って橋の付け替えを終わっても計画通りそのままにしておいたのだろう。車でも渡るし歩いても渡るから、双方の橋にお世話になっている。

その橋を商店街の方に渡って50メートル程行くと、樹齢多分20年ぐらいの桑の木がある。今年始めて気付いた。大きな実がタップリ生っていた。家に帰るために駅に向かう所だったので、23分だけ立ち止まって、摘んで食べた。とても美味しかった。勿体なく心残りだったけれど、駅に向かった。

今自分が住んでいるところでも、桑の木が何本か有り、実を摘んだり拾ったりして、食べている。沢山採れればジャムにする、季節の恵み。こちらの方は自分の様な人達が多くいて、木は少なくまあ競争が激しい。気が向いて朝早く摘もうかなあと思って行ってみると、先客が居て通り過ぎることもある。

福原橋の桑の実は、あの様子だと、取ったのは自分達だけだろう。木が多いところでは人が少なく、人が多いところでは木が少ない。桑の実だからまあ実際どうでも良いことだろうけれど、ちょっと生まれたところが違うだけで、食料が溢れて居るところと、飢餓線上の所が有る。日本みたいな恵まれた所に生まれている人は、考えて本の少しで良いから、食べる物が無いところの人々を助ける様にしていったら良い。そう言う心は初等教育から少しずつ教えた方が良いだろう。

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2008年7月15日 (火)

野菜のタグ

財政上の問題が主であるが、~~牛、~~豚というものは、普段の自分とは関係がない。それなりの料理にはそれなりの材料が必要であるから、それなりの材料を買いたいと思うが、それでもやはり日常的な物を買う。

いわゆるブランド牛、ブランド豚は美味しいとは思うけれども、大変高価である。料理の仕方で普通の肉で新鮮な物なら日常の食生活では充分満足の行く物が出来る。ハレの時は少しは奮発するけれども。

魚は産地も大切だが、実際は値段で善し悪しを判断するしか方法が無いように思っている。(産地偽装、値段インチキというのは、詐欺だから問題外)丸の鮮魚のように見た目でまあまあ分かるものは良いが、加工食品は見た目じゃもう自分は善し悪しの判断が出来ない。

丸の魚だって、昔と違って冷蔵技術の進歩で、調理していて鮮度抜群と思っても食べてみると、味が落ちていて実際は思った以上に時間が経っていることは良くあることだ。

暫く前に、新鮮な小鯵が安価で店頭に有ったので、買い求めて押し寿司を作った。表面に出て居なかった半分は少し鮮度が落ちて居た。意図的に混ぜたとしか思えない。それでも充分生食できる鮮度であったけれど、ちょっとガッカリした。

良く立ち寄る農家直販の店がある。農家が出資した販売組合のようなものだと思う。大抵は休日の午前中に行く。八百屋と違って夕方になると棚には殆ど残っていない。そこのものは鮮度さえちゃんとしていれば、価格も安いので、何時も数種類の野菜を買う。買って気に入れば、その生産者のタグを保存しておく。次からはその生産者の物を先ず探す。人気の有る生産者の作物は直ぐ売り切れる。

生産者によって価格が違う、生産者が自己責任で価格を付けている、良いことだと思っている。だからと言ってブランドではない。宣伝も無ければ、イメージ戦略もない。生産者の付けた価格に内容が勝っていると思われなければ売れない。そうなっていれば売れる。タグを通して生産者と消費者が繋がっている。途中経過は全て省略されている。消費者が支払う代価と生産者の生産物だけの世界である。良い物は他より価格が高くても直ぐ売りきれる。生産の拡大は殆ど出来ない、よって良い物が存続する。野菜に付けられたタグで生産者と消費者はしっかり通信している。

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2008年7月 9日 (水)

ケンケンガクガク

友達や同僚と話をしていて言い間違えることは余りないが、ちょっとした拍子に思っても見なかった言葉が口をついて出ることが有る。大抵は取り返しが付かない。日頃の自分を知る人にとっては意外性を感じるだろう、知らない人にとっては、その言葉に因ってそれなりの理解がされるだろうと思う。でもまあ余程のことが無い限り、相互の関係に甚大な影響は無いだろうから有耶無耶にして通り過ぎてしまう。

若い人が意中の人の前で、緊張の余り言ってはならない事を口走ってしまったり、言い間違えて弁明の機会が無かったりすると辛いものが有るが、それも運命。逆も有るだろうから、それもまた運命。

保育園児にとっては、「トウモロコシ」も「トウコロモシ」も「トウモシコロ」も同じに理解されていると聞いたことが有る。理解力が旺盛で、寛容であり結構な事と思う。それがちょっと年が行くと、論理的誤解の余地は余りなくとも、頑なに理解を拒否して、簡単な話を麻の如く乱してしまう。人は生まれてから何年かが最も賢くて、それ以降は知識が増えるごとに馬鹿になってゆくのかも知れない。世に天才と言われる人は、知識が増えても馬鹿にならない人のことかも知れない。

今でもケンケンガクガクの議論と言われると少し引っ掛かりが有るが、新しい辞書を下記の如く作りました

1.       喧々囂々(けんけんごうごう)
大勢の人がやかましく自己主張をして、話がドンドン明後日の方に進んで、全く収拾がつかない様子。素人同士が全体を見ないで話し合うときに起こりやすい。

2.       侃々諤々(かんかんがくがく)
正しいと思うことを堂々と主張して、相手の話も良く聞いて、盛んに議論しながら、真っ当な結論に達しそうな様子。知識も経験もある人達が話し合うときで時間は短い。

3.       ケンケンガクガク=カンカンゴウゴウ
上記12が混交して結局はろくでもない結論に達してしまう様子。結構高い率で最悪の結論を導き出す。

4.       喧々囂々牛モウモウ豚ブウブウ猫ニャンニャン
大抵の議論、会社の会議、通常はやらない方がまし。最近はよく国会で起きる。

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2008年7月 3日 (木)

色即是空

大抵の人は、般若心経を知っていると思う、その中に色即是空と言う言葉が有ることも知っていると思う、概ねこの世の物質的な物は、そのまま空であると言うこと。まあ特に悲観することもない。空即是色とも言っているわけだから。

昔寮に居た。仕事が終わってお腹が空いて、大盛のご飯を平気で食べた。今から考えると、今よりずっと痩せていたし、全くどこに入ったのだろうと思うが、ちゃんと食べられた。おかずも汁も大盛、水もタップリ飲んだ。それで一晩寝ればスッキリ目が覚めて、気力充実、朝起きて疲れていると言うことはなかった。又働いて、仕事が終わって、たくさん食べた。太ると言うことも無かった。よく食べた、良く体を動かした。張り切って働いた。士気即是食う。

世の中の人は良く喋る人と、喋らない人に分かれと思う。良く喋る方では政治家か漫才師が筆頭の様に思う。出るところが国会か寄席の違いで、双方余り変わらない気もするけれど。中身がしっかりしている人も居るし、そうでない人もいる。

感心して聞いてはいるが、何処がおかしいか判然としないが、何となくそんなに上手く行くかしら、と思う事が多い。自分が野党なら綺麗事を言っていれば良い。大抵の事は反論できない。言いたい放題だ。『こういう危機的な状況にある時は、弱者救済のための福祉を充実して、税金を安くして、財源は無駄遣いの追放と莫大な利益を上げている大企業から』みたいな話だ。そんなに簡単なら与党だってやっているだろうって。

口から生まれてきたような政治家もいや漫才師か、三百代言の評論家先生も、責任が無いことを良いことに勝手な綺麗事ばっかり言う人も、生きていればこそ出来る。死んでしまえばもう何も言えない、死期即絶句。

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2008年7月 1日 (火)

ペットの餌

野川綠道を散歩する。これからは雨の季節である。大雨でなければ1人で傘をさして散歩する。雨の日は散歩の人が少ない。犬を連れて歩いている人はもっと少ない。ザーザー降りでなければ、心は軽い。落ち着いて、物思いに耽りながら散歩が出来る。

晴れの日は、散歩の人が多い。犬を連れている人も多い。水のない遊水池ではリードを解かれた犬とボール遊びをしている人が居る。小型犬を放して話し掛けながら歩いている人が居る。

小型犬でも飼うには相当の出費があると聞く。まして大型犬なら餌も多いし長命であるから、費用は相当な額になるだろう。中型自動車1台分より多いだろう。飼っている人は癒されるとかとも聞く。犬の散歩で人も散歩になる。現在千数百万頭の犬猫が人に飼われていると言う。

ペットフードの袋を見ると、

「お肉たっぷりの半生タイプ」「ヘルシーなササミにチーズ・むらさきいも・ミルク・野菜をドッキング」「8歳以上のワンちゃんためにやわらかさをアップ」「お腹の健康維持に配慮してオリゴ糖を配合」等という特長が書かれている。原材料も成分についても詳細に書かれている。犬や猫を飼っている人は、彼らの健康と長生きと喜びの為に色々試して与えているのだろう。

彼らは犬や猫に対してとても優しい。予防注射を定期的にする。流行病が有れば臨時にする。健康を考えて、餌を変えて与える。各種服を着せる、靴らしい物を履いている犬を見かけるときもある。毎日散歩や運動をさせる。老犬、老描に成れば、十分な介護をする。そんなに犬や猫に優しいのだから、況や人にはもっと同情心が有って優しいはずだ。餌代の10%位は、第三世界の子供達への教育や食料援助の為に何も言わずに黙って寄付しているだろうと思う。

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2008年6月23日 (月)

ペットと墓

散歩道の1つに犬猫の墓地とお寺が有る。葬儀一切も取り扱うようだ。最初知らないで迷い込んだが、知ってからは横にある道を通るだけで、境内には入らない。散歩に向く雰囲気はない、心の平安が乱れる気が漂っている。

その墓地今は良いが数十年後にどうなっているのか、人ごとながら、若しくは他動物ごとながら心配だ。子孫累代が使うわけは無かろうから、その内荒廃の道に入るだろう。墓地側も心得ていて、何年忌などで連絡して音信不通になったら、使用権を停止没収して、新たなる顧客に使用権を売るのかも知れないが。

ペットの犬猫が死んだら、大抵の自治体は通告すれば、生ゴミとして引き取ってくれるようだ。同じ墓に埋葬する人達にとっては言語道断だろうけれど。

今、都会では、老人が飼っているペットが死んだときに、自分が入る予定の墓に埋葬する人が居るらしい。ペットと言っても殆ど猫と犬だけ。それより高等でも下等でもいけない。まあ猿を飼っている人は少ないし、爬虫類や鳥類だと犬猫ほど感情移入も出来ないだろうから、そう言う意味では自然かも知れない。

そしてその墓の主催者が死んだら、その人がそこに埋葬される。残された者が主催者と同じ気持ちなら、