2008年10月 8日 (水)

たこ焼きの食べ方(2)

この間お好み焼きを家で焼いて食べた。たこ焼きの粉もあったし、タコも有ったのでついでにお好み焼きの鉄板で材料だけたこ焼きという物を作って食べた。

なんと言ったら良いんだろうか。当たり前だけど味はまあまあたこ焼き、食感は全くお好み焼き、不味くは無いけれど、たこ焼きを食った気はしなかった。たこ焼きはあの丸い格好でないとあの味は出ないと実感した。たこ焼きにとって形は味の内。

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2008年10月 2日 (木)

たこ焼きの食べ方(1)

田舎に居た頃は、たこ焼きという物を知ってはいたけれど、現物を見たことはなかった。こちらに出て来たら、縁日にあるのは勿論、そう言う物を食べさせてくれる店が有るし、お祭りには付きものって感じ。街中に有るのは大きさが、昔のままの様な気がするけれど、祭りで見られるものは、ここ10年ばかりで巨大に成ってしまった。とても一口で食える品物ではない。たこ焼きは一口でそれも楊枝で刺して食えるのが眼目の1つだったと思うがなあ。

何でもそうだけれど、有るものが進化し始めると、当然の帰結なのかそれとも異常な方向なのか解らないけれど、本来の主旨とは関係なく、大発達というか大進化を遂げる事がある。

ポケットベル(本来は登録商標らしいが普通名詞化した)は暫く地味に利用されていたが、大発展を遂げて、多分本来の目的とは違う子供のオモチャになってそれから滅んでしまった。

その前後に出て来た携帯電話は滅んでしまったりはしないだろうけれど、昔は事務所から離れた比較的お偉いさんと連絡を付けるための物だったけれど今は小学生でも持っている。多機能化し携帯「電話」という名前はもう相応しくない。「携帯電話で改札を通る、携帯電話でキオスクの支払いをする」こんな日本語で意味がチャンと通じるって変だと思う。

たこ焼きは大発展して、滅んだりしないで、ちょっと空腹な時のお手軽食べ物で残っていてほしい。

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2008年9月28日 (日)

カワウソ

ナントカトカゲだの、マングースだの日本に居なかった動物は、沢山連れてこられて野生化している。日本相撲協会ではかなり前から、日本に居なかった・・・主題と関係ないか。

日本のカワウソは約30年前に高知で目撃されたのが最後。もう絶滅していると思われるが、最後の目撃から50年経っていないと言うことで、「絶滅危惧」種らしい。何か釈然としない。絶滅していれば何もする事は無いけれど、「絶滅危惧」なら未だ何となく救える可能性が有るみたいではないか。いっその事、南米にタップリ居るカワウソを連れてきて放して見たら、等と考える連中は居ないのだろうか。

そんなことをしたら生態系が乱れるとか仰る人も居るだろうけれど、朱鷺は中国から輸入、増殖させてつい先日、その何羽かを自然に放した(解き放した=朱鷺放した)。日本中何処にもいた朱鷺がもう種を維持できる常識的な数から相当減ってから、増殖しようとして結局失敗の言い訳のように、遺伝子的には日本の朱鷺と殆ど変わらないと言っていた。

朱鷺がよければ、カワウソだっていい気がする。日本相撲協会だって・・・。遺伝子的に言ったらどれもこれも似たようなものだろう。インド、スリランカ当たりに住んでいるワカケホンセイインコが野生化するのは黙認で、北米大陸に住んでいるカミツキガメは駄目って言うのも、いい加減な話に思える。

カワウソは多分毛皮目的で乱獲された。開発で営巣、生活地が少なくなった。河川の汚染が進んだ。それで結局は絶滅危惧種に成ったのだろう。

ずっと昔、田舎にいた頃祖父と雑談していたら、彼が子供の頃、つまり明治の末年、未だカワウソが地元の川に居たとの事。川の中でジャバジャバ泳いで魚を捕り食べて居たらしい。はたと気付いたら田舎では絶滅していた。

今だったら田舎の川も、一頃より綺麗になったし、人口減少で自然への圧力が減ってきたから、南米当たりから連れてきたら生きていける気がする。

そうすれば、田舎で話題が増える。

「この間、揚水機小屋の下でバシャバシャしているのを見た」

「一本松の土手を歩いているのを見た」と言うことに成るかも知れない。

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2008年9月26日 (金)

モミジガサの食べ方

毎年数回里山をほっつき歩いて山菜を採る。モミジガサは郷里ではシドケと言って、山菜では比較的上位の方に有ると思う。大量に採れないためか、保存が難しいのか、料理屋でも季節外れではお目にかかったことが無い。

毎年23食分は簡単に採れるが、昔の様に近所に分けて上げられるほど採れることはなくなってしまった。もし来年少し余計目に採れたら、駄目元で一般的な保存方法である塩蔵で保存が利くか試してみようと思っている。

塩蔵はザッと洗って琺瑯容器に入れて落とし蓋をする、その上に重しを置き、濃いめの塩水をひたひたに掛ける。後は冷暗所に置いておくだけ。真夏に出して塩抜きをして、茹でて食べられたら楽しみが1つ増える。

十数年前にいつもより多く採れたときがあり、茹でて冷凍したことがあった。自然解凍して食べた。香りは満足の行く物だったが、歯触りがザクザクと繊維質に成った。まあ食える範囲だったけれど、それ以降に冷凍保存を試したことはない。

シドケは茎に緑系、褐色系及びその中間と有る様だけれど、味に違いはない気がする。1回食べたら記憶に残る独特の香が有る。程よい苦みがある。シャキシャキと歯触りがよい。おひたしなら、茹でて少し水に晒せば食べられる。茹でてから汁や鍋物に入れても上手い。テンプラも独特の香りが生きて自分の好みだ。春菊に似ているかも知れない。

こちらに出て来て、季節に八百屋でシドケを見つけた。食べたかったけれど、とっても高価だった。それで里山に取りに行った。特に当ては無かったが、沢筋を見て回ったら見つかった。今と違って一箇所に沢山生えていた。見つけてしまえば沢山採れた。秩父や多摩の沢筋や水気のあるどちらかと言えば北斜面で多く採れた。

毎年楽しみに何カ所か知っている所に行って採っていた。先を越されることも多かったけれど(群落に折り痕が有って直ぐに解る)、全体的に多かったから気にしなかった。その内倒木が放置されたり、山の手入れが無くなったりして、様子が変わり、年ごとに採れなくなった。荒れて近づけなくなったところも多い。

色々難しい問題は有るだろうけれど、長い間守られてきた山が荒れてゆくのを見るのは辛いことだ。沢の水は涸れるし、シドケは採れなくなるし。

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2008年6月27日 (金)

ウグイの食べ方

「つきば」と言っていたが、多分「付き場」という意味だったと思う。自分が生まれ育った田舎を流れている全長数十キロの小河川に作った人工の産卵床。砂利が川原から河床まで万遍なく敷き詰めていて、水の深さは数十センチ。そんなところに木の柵を川下に向かってハの字型に作って川の流れを速くして、そこに砂利を上手い具合に敷いてそこに魚を誘引する。

何日かに1回河床を直していた。長い木の柄の先に丈夫な鉄枠に囲まれた金網が付いている、金魚すくいの親玉みたいな奴、名前が有ったのだろうけれど記憶に無い。

父親が産卵床を作ったり直したりする時には、特長と言っていたが、胸まで一体となっている長靴を履いていた。付いていって川原の日陰に座って、ジッと見ていたものだ。河床から砂利をすくい上げて、適当なところにザーと撒いていた。大人になってから相当な重労働だったろうなあ、と想像できた。

飽きればそこらを彷徨いてイタドリを食べた事も有った。当時は余り活発でなかったから、興味が引かれるままに遠くまで行ってしまうと言うことは無かった。

夜になると「行くか」と言うことで投網、懐中電灯、叉手網などを持って出掛ける。家から出て間もなく川の土手に出てそこにある小路を歩いて行く、暗いところは電灯を使うが、晴れていれば星明かりや月明かりで十分に歩けた。15分ぐらい歩いて付き場の土手に着いた。少し前から電灯を消して、静かに川原に降りる。そろりそろりと水際に近づいて、エイヤーと投網を投げる。ちょっと風を切る音がして、大きな鉛の連なりが水に落ちる音がする。

もう電灯は付けて良いのだが、全体が見えなくなるので付けなかった。投網をゆっくり引っぱり、徐々に窄めていって、魚を袋網の中に入れてゆくようにする。大漁の時は魚が投網の手元側の細くなっている方まで、登り上がってきて直ぐ分かった。

魚がばたつく投網を川原に持ってきて魚を網から外す。小さいのはヒヤレ、30cmより多きいのはナカト、若しくはナカド、40cm以上のはヒゴロと言ったと思う。どれも婚姻色で赤黒の線が鮮やかだった。叉手網に集めて、適当な量になれば、木で作った大きな生け簀に入れた。1回に560匹も捕れることもあった。魚が夢中に成っていて、一回目の投網で逃げなく、もう一度投網を打つこともあった。そう言うときは大漁で楽しかった。

大部分は売った。時々食べた。

大きいのは焼いてから、鍋物の出汁兼具として、小骨の多い魚だったけれど、骨離れは良く自分は好きであった。みそ味で豆腐ネギ、時にはジュンサイなどを入れた。塩焼きでも食べた、淡泊な味。

小さいのは甘露煮、長期保存が利くので1回作れば暫く食べられた。頭も背骨も皆食べられた。小学校から帰ってきて家に誰も居なければ、自分でご飯を装って、中ぐらいの魚を一匹その上に乗せて、朝の残りのみそ汁もお椀にとって、1人で食べた。昼食が終わって、水瓶から柄杓で水をゴクゴクと飲んで、遊びに出掛けた。

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2008年5月22日 (木)

キリタンポ鍋の食べ方

高校を卒業して働いている時、友達を連れて実家に帰った。秋田の人だったけれど、キリタンポを食べたことが無い、と言うことで真夏に特別に作ってもらって、実家の座敷で二人差し向かいで七輪の上のキリタンポ鍋を食べた。美味しいと言って準備したものを殆ど全て食べた。多分1泊して一緒に帰ったのだと思うが、一日何をしたのか記憶がハッキリしない。

また学生になって帰省している時、友達から電話が有った。遊びに来て貰った。東京から夜行の急行で来た。自分が当時毎度利用していた列車。寝台車も連結されていたけれど、何時も座席。昔風の木の枠で出来た、クッションの真ん中がプックリふくれている伝統的なボックス席。彼もそれで来た。駅に迎えに行った。

夜は、これ又キリタンポ鍋。幾ら秋田でも真夏はそれなりに暑い。座敷で二人差し向かいで七輪の上のキリタンポ鍋を食べた。ビールも飲んで夜は虫の音を聞いて寝た。

彼は23泊した。釣りに行って大きなのが釣れたのだけれど、糸が切れたり、放りだして置いた竿が魚に引っぱられて沖に行ってしまったり、小事件が起きて楽しかった。釣り以外にも何かしたのだろうけれど余り覚えていない。

働き始めて23年経って友達を連れて帰省した。勿論真夏。またまた暑い座敷で二人差し向かいで七輪の上のキリタンポ鍋を食べた。地元の温泉に行った。楽しかったのはハッキリしているが、他の時間は何をしていたのか余り覚えていない。

子供の頃は、1年に数回の大変なご馳走であった。今でもご馳走であるけれど、当時は普段が今より余程地味だったから、飛び抜けたご馳走だった。鍋に鶏ガラ団子が入っていて、子供は骨が丈夫に成るからと言って、23個食べさせられた。今でも晩秋に田舎から送られてくるセットにはその鶏ガラ団子が入っている。慣れている者に取っては懐かしい舌触り。キリタンポ鍋は何時も美味しく有り難く食べている。友達を呼んで一緒に食べることも有る。

肉も出汁も野菜も勿論キリタンポも全て田舎の物、あまりの美味しさに普段より多く食べる。子供の時の事や、高校を卒業して働いたときの事や、学生の時の事や、働き始めてからの事や、色々な時に食べたキリタンポ鍋の事が思い出される、そんな有り難い郷土料理キリタンポ鍋。

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2008年5月 8日 (木)

シナチクの食べ方

今はメンマとも言う様だが、自分がシナチクと付き合うようになった頃には、シナチクとは言った気がするが、メンマと言う言葉は余り流布していなかったように記憶する。

シナチクというのは日本側からの呼び名で、メンマというのは中国での呼び名の日本語読みかも知れない。

自分はシナチクが好きである。と言ってもラーメンのトッピングで増量して貰うと言うことはない。一緒に食べに行った人のシナチクを取るだけである(嘘)。

ずっと昔、昼食で時々行っていた店があった。今はそちら方面に行くことが無いので、消息は不明である。その内、気が向いたら行ってみようと思う、ついでに店が有ったら、昼食を取ろうと思う(思いつき)。

その店に入ってカンターに座ると、中年のオジサン達が数人働いていているのを見ることが出来た。当時自分は未だ若かった(オニイサン)。オジサンのウェイターは明るい感じの人だった。中の人達は、生真面目そうに働いていた。その中の1人で、見た目がちょっと恐いオジサンが大きなフライパンで良くシナチクを調理していた。そこで食べたシナチクで自分はシナチクが好きになった。余りに美味しいので、麺類以外を食べるときは、頼んで小皿に貰って食べていた(ご飯のおかず)。その内正式メニューになって掲示された。それで何かを食べるとき、「~~とシナチク一皿」と注文が出来るようになった。メニューに載ったら頼む人が多くなって前より多く作るように成ったらしい。きっと美味しいから、自分の様に頼んで小皿に貰う人が多かったのだろう。

未だにあそこのシナチクより美味しいシナチクに巡り逢った事がない。あのシナチクオヤジはどうしているかなあ、普通で言えばもう引退して暢気に暮らしているだろうなあ。

今でもスーパーに買い物に行って、袋詰めのシナチクを見ると、ジッと見てしまう。高いから滅多に買わないけれど。安売り店に行くと大袋で調理したシナチクが売っている。食べきる前に腐ってしまうから、大袋は買わないけれど、小袋は良く買って食べる。ご飯の上にザザッと掛けて、醤油を少し垂らしてシナチクご飯。納豆が好きな人が納豆ご飯を食べるノリだ。食前にちょっと飲むときも肴にシナチクが嬉しい。弁当にも56本シナチク。

事ほど左様に、シナチクは好きだけれど、筍はそれ程でもない(並)、でも筍掘りは好きだ、それも人里離れた急斜面に有る奴(危ない)。

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2008年5月 6日 (火)

バランス鳥

世の中は自分では気付かない色々な力が働いていると思う。まあ当たり前と言えば当たり前だけれど。

昔住んでいた所の隣人で23年は、会えば挨拶をする程度だったのだけれど、ちょっとしたきっかけで、結構仲良しになり、それ以来引っ越ししてからもそれ成りに交際している方が有る。先方が年上だから普通で行けば先方が順序よく亡くなり、こっちが順序よく亡くなり、そんな交際が有ったことはみんな忘れ去られるのだろうけれど、まあ普通ですよね。昔の貴族じゃないのだから、何かの形で手紙や日記が後世に伝わる心配も無いし。

何年も職場の近くで見かける人が居た。勿論挨拶もしないし、興味もないけれど、時々見るからお互いに顔を知ってしまう。そんな中、滅多に行かない近所のスーパーで買い物をしていたら、レジの所でバッタリ会って、近所の人だと知って挨拶をする。誰にもこんな事は有るだろうと思う。何かの力が働いたのだろう。

街の中を歩いている色々なカップルが居る。美女と野獣みたいなのが居るかと思うと、美男とどう贔屓目に見てもオカチ○ンコの組み合わせ。美男美女の組み合わせもあるし、その逆の組み合わせもある。まあ大抵はそれなり同士の組み合わせで結構だけれど。

「ナンデ?何で?なんで?」見たいな組み合わせって結構あるように思う。多分一時的な気の迷いか、美的センスの絶妙なる配合からか、眼の付け所が他人からは忖度できない所にあるとか、理由は色々あるのだろうけれど。何か平均化するバランスを取りたがる力が働くのだろう。つまりバランス鳥がその二人を掴んで一緒にしたのだろう。

美男はオカチ○ンコを目指し、美女はブサ○クを目指す。間違って美男美女の組み合わせだのに子供はそうでも無かったりする、バランス鳥。

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2008年5月 2日 (金)

即席麺の食べ方(2)

出張編

ずっと昔パキスタンでは持参のカップ麺を食べた。24個入れ一箱を持参した。滞在が短ければこれで十分だけれども、長いと無くなってから長い。無くなってしまえばもう入手する手だては全くないから、食べたいとも思わない。長くいると段々食べ物はどうでも良くなって行くのが分かる。贅沢な人は知らないけれど、疲れ切って空腹なら、食べやすく単純な味なら大抵美味しく食べられる。土地の人が長い間食べているものは、大抵比較的早く慣れてそれなりに食べられる物だ。自分が食べる物は日本での生活を基準としてこうでなければ成らない、と思っている人は違うだろうけれど。

ホテルで朝食を食べる気がしない時に、サイトに行ってからお湯を沸かして朝食として食べた。偶には夕方食べた。巡り合わせで昼食を取られなかったときには重宝した。1人で薄暗い部屋でフォークでズルズルッと食べた。侘びしい気もしたが、食べて空腹が満たされれば、さっきの暗い気分は飛んでそれなりに満足した。

サウジアラビアではアメリカ風のスーパーに何十種類もの袋麺やカップ麺が有った。1個か2個買ってきては味を試して結局は23種類に収束して、食べる物が決まった。1週間に45個の割合で食べた。勿論卵もネギも何も入れないで食べた。多分卵は売っていただろうけれど、ネギが売っていたかどうかは覚えていない。休みの日に疲れてベッドの上でボンヤリしていてもお腹は減る。お湯を沸かしてカップ麺を食べる。少し足りない分は、買い置きのビスケットとコーラかミルクを飲みながら食べた。それでその日の食事はお終い、という事も有った。夜中に空腹を感じても面倒くさくて、チョコが有れば少し食べてそのまま寝た。

普段編

未だに即席麺はよく食べる。朝パンを一枚食べて少し足りないなあ、と思えば、袋麺を半分に割って、あり合わせの野菜を少し切り入れて煮て、ズルズルッと、体も温まり良い。

スーパーにあれだけ並んでいると言うことは、何処のお宅でもそれなりに食べているのだろう。日本の大発明の1つだと感心する。

即席麺が自分にとって疏食なのか、贅沢食と言うことは無いだろうけれど、普通食なのかはさておいて、この何十年もお世話になってこれからもお世話に成るのは確実だ。

初心忘るべからず、感謝して美味しく食べよう、そんな大袈裟な事でもない。好きなだけである。

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2008年4月27日 (日)

即席麺の食べ方(1)

小中学校編

小学校高学年の頃、我が田舎にも即席ラーメンなるものが下ってきた。時々食べた、美味しかった。中学生になる頃、我が家では30個入り一箱を買って置くように成った。ラーメンは街に親が買い物に行くときに同伴できれば、食べさせて貰える事もあるご馳走であったら、ちょっとお金持ちに成ったように内心喜んだ。

当時もう給食があったので、お八つか、土曜日か日曜日の昼食。学校から帰ってきて1人でラーメンを1つ取り出してきて、キャベツを刻んで一緒に煮て食べた。小中学生の時に相当量食べたが飽きると言うことが無かった。

未だラーメンライスという魔法の味を知らなかった。気付いたのはずっと後年。

熱いラーメンとご飯に漬物か振りかけご飯。ウルトラCは熱いラーメンと醤油ご飯。醤油ご飯って、要するにご飯に醤油を少し掛けた奴です、ご存知無いかも知れませんけれど。

高校生編

修行のため食べなかった、と言うのは嘘だけれど、殆ど食べた記憶がない。時々友達同士がお互いの家に泊まって居たので、そんな時には食べたのかも知れない。

大学編

即席ラーメンを毎日のように食べた。入れるものはキャベツばかりではない。ネギだったりもした。それに魚肉ソーセージも良く入れて食べた。それに卵も良く入れた。一緒に牛乳を飲んだ。自分では栄養のバランスが取れていると思っていた。今でも思っているけれど。

即席テンプラそばも時々食べた。同じじゃ無いかと言われそうだけれど、これは中華ではなく和食。知る限り一種類しか無かったと思う。これにはネギと卵を入れて食べた。同封の乾燥しているテンプラも食べるときに麺の上に乗せる。直ぐグジャグジャに成るが中々乙。

即席冷やし中華もよく食べた。夏にも食べたが冬にも食べた。キュウリの千切りと魚肉そうセージの千切りと卵焼きの千切り?を掛けて食べた。去年の夏に思い出して、行きつけのスーパーで探したが、発見できなかった、残念。

ラーメンが切れていて、これをラーメンの様に食べたことも有るが、ちょっと酸っぱくて咽せた。

即席うどんも食べた。他の麺より少し量が多くて、晩飯に十分成った。ネギをタップリ入れて、卵も黄身の表面が固くなり始める頃に煮上がるように調整して入れた。他の麺と違って、少し煮すぎた方がしんなりして美味しかった。これにも相当お世話に成った。

小さな部屋の小さな台所の食べ物を入れる段ボール箱には即席麺、キャベツ、ネギ、キュウリ、魚肉ソーセージ、卵が入っていた。

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2008年4月21日 (月)

かき氷の食べ方

小学生の頃、真夏に1回か2回、かき氷の出前を頼んで家族みんなで食べた。あんな美味しいかき氷を食べる機会ってもう無いと思う。

かき氷は近くの菓子舗のオジサンが出前をしてくれた。大きな岡持に入れて持ってきた。足の付いたガラス製の入れ物、昔はかき氷と言えば必ずその容器に入っていたと思う。スプーンは金属製。「冷たい」「甘い」「頭が痛い」「美味しい」だのと言いながら食べた。食べ終わって暫くすると、持ってきてくれたオジサンが静かに来て、母か父と少し話をして、容器を持ち帰った。

多分食べたのはイチゴかメロンにミルクが掛かっていた。何であんなに美味しかったのだろうか。食べる前にも、食べた後にも、かき氷の話題は無し。話題にすると後こんな機会が訪れないような気がして。まあ一種の言霊。

大人達は、それから又仕事、自分達は外へ遊びに行ったか、風通しの良いところで昼寝をした。アブラゼミが鳴いていた。夕方になって、薄暗くなり始めて、少し涼しくなるとヒグラシが鳴いた。

かき氷はどんな値段だったかは知らないけれど、とっても贅沢な食べ物だった。子供の頃、あれが食べたいこれが食べたいと何か要求した記憶は無い。そんな事はお金持ちの話だろう。自分達は、突然の幸運でかき氷を食べた。

高校生ぐらいになると、少しは小遣いが有り、夜特に暑いときは、かき氷を食べに行ったことも有る。それも菓子舗だったけれど、出前をしてくれた所とは違うところ。その菓子舗は夏になると、敷地に簾で蔽ったかき氷を食べる所を設えた。ブラブラ蒸し暑い薄暗い街を歩いて、小柄で頭の禿げたにこやかなオジサンが気さくに注文を聞いて、手で回すかき氷器でシャーシャーかき氷を作った。夜はもう秋の虫が鳴いていた。

崩れないようにスプーンで慎重に押さえながら、少し溶けている下のシロップがタップリの所にスプーンを差し込んで少しずつ食べた。きっと真剣な顔をしていたんだろうと思う。段々涼しくなって行き、食べ終わる頃はもう少し寒かったりする。最後は例のコップを持ち上げて最後の冷たい甘い水が多いかき氷を飲み干した。

ブラブラ歩いて家に帰る。夜寝てからお腹が冷えて、痛くなり、便所へ行ったことも有る。ああなんて贅沢で暢気な生活だったんだろう。

今?良い思い出がぶち壊れそうで、言霊のせいで?もう何十年もかき氷は食べていない。

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2008年4月17日 (木)

徘徊、放浪

最近は徘徊と言うと特殊な意味が加わって、介護施設に入っている老人が何かを探し求めて、夜中に長時間歩き回る様な情景を連想したりするが、まあこれも徘徊には違いないけれども、普通はそんな悲惨な情景ではなく、単に行ったり来たり、比較的狭い地域を歩き回ることや、彷徨く事を指す言葉だろう。

彷徨く動機に特段の意味が無いこともあれば、内心と表面上と乖離している場合もあるだろう。青年が意中の人と会う機会を増すために、その人が出没しそうな地域を徘徊して、友達に会って「ちょっと散歩」ってなもの。

徘徊する範囲が格段に広がって、時間も長くなると放浪すると変化しそうだ。字面の感じからすると、徘徊は同じ所を何回か通りそうだが、放浪は一筆書き交叉無しの様に自分は感じている。徘徊にも特段の当ては無いが、放浪と成るともっと茫洋としている。

今でもそうであるけれど、街中と言わず野山と言わず自分は徘徊するのが好きである。住んでいる街はもとより近隣も徘徊するし、電車やバスで出掛けていって、探見と言えば探見だけれど、その街に住むつもりになって徘徊することもある。誰かから普段何かしておりますか、と言われたら、徘徊とは答えないで散歩と答えている。

少しお金と暇が有れば小放浪する。人生ってそもそも放浪の様な気もするけれどもね。

田舎に居た頃、小学生から高校生の時まで頻繁に里山を徘徊した。小さいときは友達と一緒と言うことが多かったが、長じるに従って1人と言うことが多くなり中学生も後半以上になると全く1人だけで徘徊した。夏は放課後だったり早朝だったり、それ以外の季節は放課後。週に2312時間里山を徘徊した。休みの日には半日、一日徘徊した。空を見て長時間過ごしても飽きると言うことが無かった。

里山は松の林、杉の林、雑木林、笹野原、藪、点々と用水沼。日中獣を見ることは無かったが、鳥や虫、その他の動物が身近にいた。里山そのものが生きていた。

当時はそれぞれの集落に通じる小路が縦横に走っていた。小路の真ん中は人が一人か二人歩ける程度に完全に草が無く、黄土色や焦げ茶色の土が露出していた。山菜を採ったりキノコを採ったり、木の実を採ったり昆虫を捕ったりもしたが、大抵は彷徨くだけ。

そんな里山の小路も草が生え、藪となり、もう徘徊する路も無くなってしまった。

自分がロマだったら又考えが違うかも知れないが、ちょっと憧れるなあ。何を感じ、考えて放浪して居るのだろうか、喜びと悲しみ。焚き火の下で彼らの話を聞いてみたい気がする。

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2008年4月 9日 (水)

塩鮭の食べ方

子供の頃塩鮭ばっかり食べていたので、多分普通の人が一生涯に食べる鮭をもう食べきってしまったと思う。

学校から帰ってくる、勿論家には誰も居ない、と言っても鍵が掛かっているわけではないから、普通に立て付けの悪い玄関の引き戸を開けて家に入る。土曜日なら弁当の無い日なのでお腹が空いている。風呂の中を覗いてみる。(風呂と言っても、湯船のある風呂場ではない、勿論これも風呂と言っていたが文脈が違うので混乱したことはない。多分、塗りおわった漆器を入れて乾かす室を転用したものか、それに似た形だから風呂と言っていたのだろうけれど、茶箪笥のような食器入れの様な全部木で出来た引き戸の付いた物入れである)

朝焼いた塩鮭がある。タクアンやその他の漬物も入っている。佃煮や筋子が厚い油紙に包まれてそれがペラペラの薄い板で作られた箱に入っていることもある。いじこに入ったお櫃にはご飯が入っている。朝炊いたもので真冬は冷たいが、それ以外は生ぬるくて、平気である。大きなお鍋にこれも朝作ったみそ汁が有る。

兄弟の誰かがいれば一緒に、居なければ1人で食べる分を出して、小さな折りたたみの足の付いたお膳を広げて、その上に乗せて食べる。何時も美味しいと言って食べた。食べているときに誰か帰ってくると、「たっちゃんは、何時も『美味しい』と言いながらたべているね」と言われた。

子供の頃未だガスは無かった。電熱線のヒーターは有ったが、真冬でも余り使わなかった。いつもの事なので昼には温かい物を食べたいとも思わなかった。

当時塩鮭は何時も塩引きと言っていた、今の辛口よりよっぽどしょっぱかった。休みの日に釣りや探検に行くときは、自分で弁当を作って持って行った。弁当にご飯を詰めて、その上に焼いた塩引きの一切れを乗せて脇に漬物を詰めた。後は保温じゃない水筒に水を詰めて持って行った。場所によっては飲める湧き水が有るので、それを当てにすることも多かった。その他にも塩引きを食べる機会は多かったから、全くよく食べた。

だからもうこれからは他の人の為に鮭は残しておこうと思っている。

村上の高級塩鮭はお土産で貰って、薄っぺらい切り身が真空パックになっている奴を食べたことが有る。家人が村上を通った時に値段を見たら本のちょっぴり、多分A6 位で1000円だったとの事。もう食べる機会は無いなあ、と言うより鮭は他の人の為に残しておくのだから、もう食べられない。土産で貰ったら普通に食べるけれどね。

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2008年4月 3日 (木)

分別すれば

確か昔、分別すれば資源、混ぜればゴミ、と言う標語が有ったように記憶している。必ずしも正しいとは言えないとしても分かりやすいし、資源化出来るゴミも沢山出てきて、ちっとは足しに成っていると思う。今は一頃と違って古新聞や雑誌が、家庭や集積所に溢れていることは無くなった。これは資源化されたと言うより、隣国で需要が高まり商品化したと言うことらしいが。

散歩コースの1つの道沿いに古紙を扱う倉庫の様なのが有り、今はフォークリフトが忙しく立ち働いている、何年か前は古紙が堆く積まれていて、働いている人も見えないぐらいだった。

別に皮肉屋じゃないけれど、分別すれば只のゴミ、混ぜれば厄介なゴミ、と言うのが現状のように思う。例えばリサイクルするのに本当にアルミ缶が良いのなら、缶詰はみんなアルミ缶にすれば良い。切り替えるまで少しは時間が掛かるだろうけれど。自分が好んで食べる鯖缶は昔から鉄缶であり、寡聞にしてアルミ缶にすると言う話は聞いたことが無い。

外で喉が渇いて公園が近くに有れば水飲み場で水を飲む事も多いけれど、ペットボトルに入ったカロリーのあるものを飲む、余談だがカロリーのないものを150円も出して飲む気がしない。このペットボトルも実は結構厄介者で集めたは良いが、場所によっては処理に困り野積みをしているらしい。自分は何回か使って汚れてくれば捨てる。

本気でリサイクルする気なら初めからリサイクルする事を考えて作って発売せにゃいかん。まあ方法は材料だったり、作り方だったり、システムだったり色々あるだろうけれど。

2年ほど前に、友達と山菜採りに丹波方面へ行った。丹波と言っても京都兵庫の方ではなく、東京の奥多摩の。

小さな沢筋の小路を登って行った。少し深い沢の下に雑誌類が大量に捨てられて朽ち果てていた。友達曰く「沢に捨てないで、道路に置いていってくれた方が遙かにマシだ」

今自動車や家電製品はリサイクル料が入って居るか、リサイクル料を払って引き取って貰っているが、庭のある人が生ゴミをコンポストで処理する以外は、殆どのものが他人の力で処理しているのだから、もうちょっぴり考えた方がよい。

電気はクリーンなエネルギーだから全部電気にすれば良い見たいな単細胞な考え方も止めた方がよい。電気の3割以上はしっかり分別しても今の科学じゃ手に負えない核廃棄物をドンドン作り出す原子力発電だし。ソーラーだって風力だって発電するときはクリーンだけれど、装置を作るまでと寿命が来て処理するときは、きれい事だけで済んでいる訳ではない。

自分の主張を通すために反対しにくい論法で相手の意見を封じずに、みんな忌憚の無い意見を出し合って、生きてゆくために協力しないと、数百年後には先進国後進国を問わず結構悲惨かも知れない。猿の惑星って事も無いだろうけれど。

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2008年3月24日 (月)

イチゴの食べ方

我が家に時々イチゴを呉れる人がある。季節の初めから季節の終わりまで、毎年何遍も貰う。有り難い。何時も美味しく頂いている。その年の最後の物はジャムにして保存している。次の季節まで時々出しては美味しく大事に食べている。自製のジャムを食べると、安ものを買って食う気がしなくなる、諸般の事情で高いものは買って食うことはない。

イチゴは痛みやすい食べ物だと思うが、遠いところから運ばれているものが多い。ご苦労様なことだ。

子供の頃、家では副業の1つにイチゴの栽培をしていた。勿論露地物。出荷は指物師に作ってもらった専用の通い箱。ワラビが伸びた葉っぱを敷いた。今考えるイチゴは栽培だから幾らでも作れるだろうけれど、ワラビは自然のものだから、限度が有ろうし、集めるのが大変な様な気もするが、記憶ではそれ以外のものを敷物にしたのを覚えていない。杉板で作った平たい箱にワラビの緑の葉っぱを敷いて真っ赤なイチゴを綺麗に並べて出荷した。見た目にも良く、味も良かったので、評判が良かったらしい。自分は未だ小さかったので手伝った記憶はない。

毎日じゃ無かったけれど、イチゴの季節になると、出荷しないイチゴをたくさん食べた。大きなボールに塩水で洗ったイチゴが沢山入っていた。子供達がその周りで夢中になって食べた。とても美味しかった。当時照明は今ほど明るくなかった。親たちは必死で働いて子供達を育てていたのだろうけれど、こっちは毎日食って寝て学校へ行って遊んで少しは家を手伝って元気に生きていただけ。

自分は子供の時に1人の人が一生涯に食べる量に近いイチゴを食べた気がしているので、今自宅で食べるときは1回に5個と決めている。後は家人に任せている。子供の時に一生涯に食べる分とはほど遠い位しか食べていないだろうから。

年末年始頃に友人から頂いて最初に食べるイチゴは輝くほどに美しく美味しい。まことに有り難い。それでも昔、初夏に薄暗い照明の下で食べた、親が作ったイチゴの幸せの味が1番だと内心思っている。

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2008年3月20日 (木)

上原ウーガ

友達に日仏混血の上原ウーガという美人が居る。と言うのは嘘だけれど、何となくいそうな名前でしょう?なんだか知っています?千葉いすみ地方で、明治から昭和初期に大人だった人は知っているはず、無理か。

この間外房の田舎っぽいところを彷徨いている時に小さな郷土資料館で発見した。白い看板に黒字で『上原ウーガ』と書いてあった。「オイ、オイこの名前は何だ?」名前の由来を知りたいと思った。学芸員が居そうな資料館ではないが、念のため事務室をチラッと覗いたら、留守番の人っ感じの人がいるばかりで、名前の由来は知り得ず。

今度その近隣のもう少し充実した郷土資料館を探し当てて、上原ウーガを見つけ出して、名前の由来を突き止めようと思っている。もしかしたら睦沢にある歴史民俗資料館当たりには、名前も立派だし、由来が有るかも知れない。そこには1回行ったことが有るが、その時は上原ウーガに気付かなかった。

話は変わるが、その資料館に昔の様子を再現して展示してある一画が有った。そこで囲炉裏の側にいる人がもう亡くなった岳父に似ていた。今度行ったら、特別の許可を貰って写真を一枚撮りたいものだ。

上原ウーガって、犂(すき)の一種である。つまり田圃を耕す道具で牛や馬に引かせて使う農具である。いすみ地域では馬を主に使ったらしい。

当時は一世を風靡した道具だったとのこと。昔の事だから、鍛冶屋が金物を作ったのだろう。木造の部分は誰が作ったのだろうか。それも知りたい。

そんな道具も今は廃れて忘れ去られて、幾つかは古い納屋の奥から引っ張り出されて郷土資料館の隅で眠っている。

相当年配の人はそれを見て、若いときの事を思い出したりするやも知れないが、その人達ももう間もなく、資料館に訪れられなくなってしまう。時代は過ぎて人も去って行く。

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2008年3月12日 (水)

ハンバーグの食べ方

幸いにもか、不幸にもかは即断しかねるが、子