2019年3月 8日 (金)

麺類の思い出、幾つか~~♪ 5.その他、直ぐ頭に浮かぶ麺関係幾つか・・5




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Fの友達が郷里に帰る事になって、友達が集まって荷物を送りだしてから、年長の友達が、持って居た、少しクラッチが滑る大型の乗用車が有ったのだが、4人で真夜中に近い頃、空腹を感じて、彼らが前に何度か行ったことが有る、屋台のラーメンに行くことに成った。田舎道の林際に比較的大きなテントが有って、裸電球が幾つかぶら下がって居て、簡便なテーブルと椅子。かなり濃厚な美味しいラーメンだった。自分は田舎育ちで、そういう所は初めてであったし、真夜中の寒い所に、そこだけ盛り上がっている感じで、少し、違う世界を見たような気分だった。そんな屋台でのラーメンは、後にも先にも、これだけ。
 Fとは今でも付き合いが有るが、その年長の二人には、それから暫くして、もう一人も郷里に帰って、以来一度も会った事が無い。






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2019年2月27日 (水)

麺類の思い出、幾つか~~♪ 5.その他、直ぐ頭に浮かぶ麺関係幾つか・・4




四十年位前に、自分が勤めていた会社も土曜半日~隔週土曜休み~週休二日制になって、別に給料が減ったわけではないから、嬉しかったが、お金がたっぷりある訳じゃないし、子供のころから倹約していた、と言う事も有るけれど、週末はいつも出掛けていたという訳じゃないが、只の散歩は季節を問わず良くしていた。
 夏は、早朝身支度を終えて、数時間色んな所へ歩いて出かけて、たっぷり汗をかいて戻った。



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冬は、明るくなってきたころに冷気の有る外へ出た、当時はゲートボールが流行り始めの頃で、早朝から元気な、お爺さんお婆さんの声が響いていた、実は今の自分より若い人も多かった(?)~~♪



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 当時は途中からアパートに風呂が有ったから、特に夏はシャワーを浴びて、素麺をお腹いっぱい食べて、昼寝。未だ無いときは、昼寝をしてから、銭湯が開く時間に、お爺さんやお婆さんや夜出勤する人々の様に、早く行った。
 素麺の代わりに冷や麦の事も有ったが、箱で買っていて、夏中食べていたが、数年したら、ブームが去って、そんなに回数は食べなくなった。きっとここでも、「普通」の人が、一生涯に食べる素麺を数年で食べた気がする。高価なものは文句なく美味しくて、まあまあのものはそれなりで、素麺も激不味のものは、小麦以外にデンプンと言うものが入っていた。見てくれで区別はつかない~~♪



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2019年2月13日 (水)

麺類の思い出、幾つか~~♪ 5.その他、直ぐ頭に浮かぶ麺関係幾つか・・3

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グアテマラで、一応仕事が終わって、帰る日の前の晩、首都に戻っていたのだが、やや怪しい日本料理を現地の人と食べに行って、彼のラーメンを分けてもらって食べたのだが、何か、妙に懐かしかったが、あまりおいしくは無かった。
 そばの席に、現地の30歳ぐらいの人が居て、注文したものが来て(多分)、一口食って、お金も払わないで遁走~~♪よっぽど、想像と違っていたのだろうけれど、こっちも少し驚いた。
 中南米は日本的に言えば、余り治安が良い国ではない事が多そうだが、グアテマラにしろ、ベネズエラにしろ、今相当社会が混乱しているようだが、中南米には日系人も可成り住んで居るのに、現地の政治家のゴタクか、日本の評論家のクウソウばかりで、そういう感じの一般の人たちに関する報道は無い。「嵐」が活動休止予定などと言うのは、○○的だから、と官憲に圧力を掛けられたのなら、由々しき大問題だが、疲れて少し休みたいとか、違う活動もしたい見たいだから、ゴールデンタイムにどのチャンネルでも流すようなことじゃない気がする~~♪
 報道系の人も、自分が知りたい事柄は、どんどん流すが、興味がない事は、世の中に在りもしない~~♪

 あ、もう一つ、その時、スニーカーのような靴を履いていたが、23人、靴を磨かせて呉れ、みたいな感じの少年が、近づいてきたが、丁寧に断ったけれど、はした金だから、頼んだらよかった、と後で思った~~♪



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2019年2月 1日 (金)

麺類の思い出、幾つか~~♪ 5.その他、直ぐ頭に浮かぶ麺関係幾つか・・2


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中央アジアのどっかの国で(どこだか忘れた~~♪)、あそこら辺は麺類があまりないのだけれど、出張した時、同僚と休みの日に○○麺(これも忘れた~~♪)、と言うのを探し当てて食べる事が出来た。確かに麺類では有ったが・・ホウトウとごっちゃになって居る、山梨と中央アジア(笑い)。
 マルコポーロが、中国の麺類をヨーロッパに、もたらしたという事だが、途中では、あまり受けなかったのかのかも知れないけれど、中国からベネチアに帰る時は、殆ど海路だったようだから、港での滞在期間は、それほど長くなかったのだろう。
 パキスタンでも本格的麺類には出会ったことが無かった、当時はイタリア料理店は無かった、今でも日本の麺が進出?という事も聞いたことが無い、その地の伝統食が主に手で食べられている事と関係が有るかどうかは分からないけれど、東アジアではかなり早い時期から箸を使っていたが、ヨーロッパでカトラリーが流布したのは、マルコポーロ時代より後で有るようだし、という事で、食器との関係も不明~~♪









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2019年1月28日 (月)

麺類の思い出、幾つか~~♪ 5.その他、直ぐ頭に浮かぶ麺関係幾つか・・1


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東京の新宿のイタリアンレストランで、そこにエスプレッソマシンなどを納入した、イタリアングループ数人のうちの一人が知り合いで、招かれてイタリア料理をご馳走になった事が有った。彼らは、食事の後に、店主に乞われて店の白い壁に、サインペンで、色々落書きをした。他のお客さんは、服装も良くお金持ちそうだった。

 感じの良い、室内装飾、落書きの現場に出会った。運が良かった~~♪

 今、近所にも本格的なイタリア料理店が、いくつかあるが、昔三国同盟と言うのが有って、旧友だろうけれど、ドイツ料理店は少ないが、どうしてイタリア料理店は、こんなに繁盛しているのだろう~~♪何かしら理由が有ると思うけれど、自分には分からない。




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2019年1月 7日 (月)

麺類の思い出、幾つか~~♪ 4.生ラーメン



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多分、小学校5年生の時、もしかしたら6年生かも知れないが、その事が、他の記憶と全然関連していいないので、ハッキリしない。

何の切っ掛けだったか覚えていないが、Kと親しくなった。彼の家は、自分の家からは1.2㎞ぐらいだった。学校から一緒に歩いて行ったのか、休みの日か土曜日に一人で歩いて行ったのかも全く記憶が無い。

彼の家は、その集落の入り口から23軒目にあり、かなり大きな農家で有り、土間も広く、廊下が長く、自分の家とは、かなり違っていた、彼は部屋を持っていて、普段はそこに居る、という事であった。部屋で待っていて、という事で、待っていたら、お皿に、当時多分10円だったビニール袋入りの生ラーメンがそれぞれの皿に乗っていた。二人で、多分土間に有った台所へ行き、少しだけ水を差して、ほぐして、ちょっぴり醤油をかけて、戻って部屋でゆっくり食べた。そういう風にして食べたのは、一生涯で、これ一回きり。味はあまり覚えていないが、彼がもてなしてくれて、和気藹々と、食べた事だけは、しっかり覚えている。

彼とは、中学校時代を通して仲良くしていた。卒業してからは、別々の学校に進んだ。中学校を卒業してから、会ったことは一度も無い。10年ほど前に、帰郷した時に、雨の夜、その集落の道を通って、窓からお宅が有るのは確認したから、お元気でいるなら、嬉しい。

機会が有れば会って話もしたい気がするけれど、約半世紀、誰にも起きる事だろうけれど、お互いに色々な事が起きたのだろうし、自分はご馳走になったので、覚えているが、彼が覚えていなくても、それは当たり前の事だろうけれど、思い出が壊れそうで、少し恐れている。





 

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2018年12月 4日 (火)

麺類の思い出、幾つか~~♪ 3.即席袋麺のウドンなど



 

 

当時、ある会社に働いていて、今とは違って、全く呑気な時代で、全く残業が無いと、と言う訳ではなかったが、定時になると、会社を出て、30分ぐらい掛かって、610分から始まる、夜間学校に間に合った。凄いお腹がすいた時は、時々会社の近くのソバ店で、キツネ、タヌキ、月見などを食べることもあったが、大抵は、パンを食べてから、9時まで勉強して、95分だか6分だか、忘れたが、その学校の最寄り駅を出発して、二回綱渡りのような乗り換えが上手く行けば、木造モルタルのアパートに着くのが940分過ぎ。そのころは、部屋に台所と便所が付いていた。そんな8室位のアパートが10棟ぐらい左右に並んでいた。

当時は週に4回ぐらい、通常は月水金日、銭湯に行って居て、行く日は、直ぐ準備しておいた道具を持って、小さな自転車で出かけた。郊外だから、今はもう殆ど無いが、畑や梅林の中を通って近道するような町だから、10時までしか、入れなかったから、それなりに急いだ。入ってしまえば、10時半ごろまでだったが、それより少し遅くても文句を言われる事は無かった。当時三助もいた。もちろん自分は一回も利用したことは無い。


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戻ったら、当時殆ど毎日の様に食べていた、即席の乾燥めんのウドン、ちょっと量が多かった。キャベツ、ネギ、玉ねぎ、卵、魚肉ソーセージ、ナルト、さつま揚げ、そぼろ昆布など、その日の気分で適当に入れて食べていた。自分は栄養失調の事を心配した事は無いが、友達の友達は、聞いた所によると、一か月以上、何も入れないで即席ラーメン類だけ食べていて、眩暈がして倒れて、運ばれた病院に一か月ほど入院したらしい。

今は、一袋だと多いけれど、当時は、勿論平気だったし、有れば、一緒にご飯とかおにぎりとか、パンもよく一緒に食べた。缶詰もよく食べた。今の人は、想像もできないだろうけれど、コンビニは無かった。やや近い感じの個人商店は有ったが、数は少なかったし、68時ごろには閉店していたように記憶している。

そのころ、勿論、各種即席麺、乾麺、12か月以上は持った真空パックと言うか半生のスパゲッティも有って、それも結構食べた。一か月に一回とか、「ああ、飽きた、もう食えん」と言う事も有ったが、すぐ忘れた。いつも夜美味しく食べていた。テレビに、今の様にグルメ番組は無かったと思う、テレビは持って居なかったけれど。

 



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2018年11月18日 (日)

麺類の思い出、幾つか~~♪ 2.台湾屋台のウドン~~♪

 

 Fと三十数年前に、中高生の頃には、想像もしなかった、自分位の程度でも、海外旅行に行けるようになってきていて、二人で、一大決心をして、台湾に旅行に行った事が有る。その少し前ぐらいから、世界の農協が、団体で海外旅行に行って、大活躍で有ったが、我々は、地味に、羽田で落ち合って、タイペイを観光して、適当にそこらの飯店やら屋台やらでご飯を食べて、これが海外旅行と言うもんだと、思って楽しんだ。


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タイペイの朝市のようなところを散策して、ちょっと珍しいようなお土産やお茶や、その他、買ったものを袋に入れて歩いた。

それまでは、土産なんぞ買うものじゃないと思っていて、二人で土佐に行った時には、桂浜の傍で五色石が売っていたが、おばちゃんに聞いたら、浜に行けば落ちていると言われて、当時はそんな呑気なものだったが、礼を言って買わず、浜で拾ってきた。おばちゃんにしてみれば、倅みたいな、貧乏そうな二人が、旅行していると考えたのだろうが、後で振り返って、手を振ったら、ニコニコして手を振ってくれたぐらいだ。後1つ加えれば、足摺岬では、近所の波打ち際に行って、初めて見るサンゴのかけらを何個か拾ってお土産~~♪

 

という事で、お腹がすいて、屋台のウドン屋さんで、小さなテーブル椅子もあったし、美味しそうな匂いもするし、人が良さげなご主人も優し気な眼差しだし、メニューは、漢字だが、勿論意味が分かるし、二人とも同じものを頼んで食べた。

 

落語の時蕎麦じゃないが、本当に美味しくて、小声で、「美味い」を連発しながら、その肉ウドンを、これまた汁までしっかり食べた。お金を払う時に、その人、実は日本語堪能で、本当に美味しそうに食べて、美味しいと言ってくれて、自分は嬉しい、もしよければ、一杯ずつご馳走したいが、如何ですか、という事で、遠慮なくご馳走になって、二人ともお腹が一杯になった。礼を言って別れたが、○○にまだ行って居ないなら、と言って、説明してくれたので、近くの別の街~市場も行く事が出来た。そこも日本のような、台湾のような、良い所だった。

あの屋台のウドン、本当においしかかったなぁ。旅行全体も快適で素晴らしい物であった。今でも台湾は親日であるが、先人に感謝している。

 

Fとは、遠くに住んでいる時は、それなりに、今の様に、比較的近くに住んで居れば、年に何回か、落ち合って夕べの一時、軽く飲みながら歓談している。2

人とも両親共に鬼籍に入ったし、可成り草臥れたが、長生きした方が、その葬儀に出て、付き合いは終わるが、生きている方が、時に応じて思い出すだろう。昔の様に、ダラダラと旅に出るのも良いと思っているが、昔ほど呑気な旅は出来ないような気がしている。 おもてなしに熱心な所が多すぎて~~♪

 

 

 

 

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2018年11月 3日 (土)

麺類の思い出、幾つか~~♪ 1.あのウドン、美味しかったなぁ~~♪





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もう40年以上前、昭和50年(1975年)頃の話、念のために言って置けば、郊外の街は今よりずっと暗く、今よりずっと食べ物に関しても生活程度は低く、未だ携帯は世に無くて、携帯に纏わる誤解とか苛めとか詐欺とかは発生しようも無かった。

自分たち程度のアパート住人には、電話は公衆電話のみで、大家さんが近所に住んで居る所は、呼び出しも可能であったが、そう言う人も少なく、連絡はハガキが多く場合によっては勤め先の電話を利用させてもらう事もあったが、遠慮気味であった。

 

その時は、友達Fの所に泊まりに行って居たのだが、隣の駅に、別の友達Tが居て、自分が共通の友達。お互いに話をしていたから、そう言う人が居るのは、お互いに知っていた。二人のアパートは駅から遠かったが、歩いて直行すれば、どちらも最寄駅から歩いて行く距離を足したぐらいという事で、寒い夜、思い立って行くこととした。出がけに、トリスをコップに半分ずつ一気に飲んで、さて出発。

 

私鉄の田舎道を一時間ぐらい歩いて、漸く辿り着いた。どんなアパートだったか、あまり記憶はないが、相当古い感じで、半分ぐらいしか住んで居なくて、真ん中に廊下が有り、当時便所に付いているような暗い電灯があり、両側に、小さな部屋が並んでいたように思う。暗い道を歩いて行ったので、招き入れられたら、妙に明るかった、暖房は無かったが、全然寒さは感じなかった。

Tは久しぶりの、来客で、最初は途惑っていたように見えたが、何となく楽しそうで、暫く雑談していたら、お腹がすいたという事で、ウドンをご馳走してくれることとなった。部屋の外の厨房かどうだったか覚えていないが、20分ぐらいして、それなりの丼に三つウドンが出来て、三人で食べた。とても美味しかった。ネギとナルトが入っていたように思う。「ああ、美味しい」と言いながら、当時の習慣で汁も残さず食べた。後で聞いたら、汁は醤油と砂糖と化調か、カツオの粉だしだけ。

 

 

Tは、奮闘もしたようだし、挫折も有ったようだし、あれから暫くして、遠くに住んだこともあり、頻繁では無かったけれど、連絡しあっていて、連絡は少ししかなかったが、当時の普通だったように思う。10年位経って、亡くなったという知らせが、妹さんからもたらされた。遺品を整理していたら、自分が出した手紙類が、若干出てきて、当時勤めていた会社に電話が有った。もう、彼が亡くなった年齢と同じ位の年月が経った。

あのウドンをご馳走になって、それから逢ってもおかしくないのだけれど、思い出せない。夜半に歩いて帰る我々をアパートの前で、ちょっと複雑だったけれど、特有の笑顔で見送ってくれたのが、よく考えれば、今生の見納めだった。

自分は年が行ってしまったが、彼は勿論あの時のまま。

 



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2018年8月11日 (土)

たかが石鹸、されど石鹸、アレッポ石鹸~~♪




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子供の頃、石鹸と言えば、洗濯石鹸のことで、硬くて大きな奴。身体用の石鹸は花○石鹸と言っていた、自分は顔石鹸だと思っていたが~~♪

 

風呂に入るとき以外は、貧乏だったからか、習慣が無かったからだったかは、判然としないが、余り使わなかった。小学校では「手を洗おう~~♪」運動が有ったようにも思う。当時は自分も今ほど手を洗わなかった。外遊びをしているとき、田圃の畦にある用水の水で手を洗うときは、傍にある、柳かそんな感じの細長い葉っぱを数枚採って、掌の中でもみこすると確かに泡が出たが、それで洗っていた。

 

青年になっても、顔石鹸の臭いが好きになれなくて、銭湯では、一頃シャンプー、ボディソープという物を使っていたが、ぬるぬるしてその内、洗濯石鹸で、髪も身体も洗うようになったが、大きすぎるので、半分に切って使っていた。洗った後サッパリしたし、妙な匂いの香料が入っていなかったので、愛用していた、その内、ミュー○という赤い箱に入った石鹸も使うようになったが、安価で、比較的馴染める液体石鹸もその内普通に使うようにはなっていった。

 

そんなある時、同僚が、シリアに出張して、お土産にアレッポ石鹸を貰った。オリーブオイル+ローレルオイルが入っている奴で、香りも気に入ったし、表面は黄土色だったが、使ってゆくと中は、オリーブ色で、それからは通常は是を使うようになった。比較的高価だったが、なんせ減らないので、通常23ヶ月で1個使う程度。費用効果では、収入も少し上がっていたので、納得できる物であった~~♪

 

そうこうしている内に、アラブの春、アメリカの歴代3位に入る、馬○大統領のB.クリ○トン当たりから、チェンジと絶叫して事態を悪化させる、B.オ○マ当たりまでが主導したのだろうけれど、民主化という実際は混乱と貧困の季節が来て、シリアも大国が介入して内戦状態に、未だに収束の兆しはない。

 

偶に何処かで見つけては買って使うと言う感じであったが、シリア内戦が酷くなって、値段が上がって、その内発見出来なくなって、困ったなあ、と思って居るとき、ギリシャ原産のオリーブ石鹸がかなり安価で売っているところを見つけて、それからはそれ一本槍、その内包装と名前が違ったが、トルコ産になったオリーブ石鹸であった。香りはアレッポ石鹸には及ばないが、仄かなオリーブの(?)の多分、香りがするだけで、良い物であった。

是も1時、品薄になって、在庫が切れかかって居たときに、又同じ店で沢山有ったので、10個ほど買って、在庫して有る。使い切るまで生きているかしら~~♪

 

シリアでは1000年以上前からアレッポ石鹸を作っているらしい。と言う事は、貿易品でもあったろうし、使ってもいたのだろう、凄いことだ。

 

この人たちに平凡な日常の日々が少しでも早く訪れます様に。

 

又以前のように、街でアレッポ石鹸を買えるようになれば、ちょっと高価だが、時々は買って使いたいと思っている~~♪

 

9000キロ離れた日本にも、シリアの人々のことを、思っている人は沢山居ますよ、シリアには行った事が無いけれど・・サウジに出張してきたときに、知り合ったシリア人たちは、今どうしているかなぁ~~♪

 

 

蛇足ながら気になることが有って・・・、日本の販売者が包装を決めたのだろうけれど、シリア産の時は、成分の所に、オリーブオイル、ローレルオイル、苛性ソーダ、って記入してあったが、ギリシャ産になった時には、オリーブオイル、水酸化Naに成って、トルコ産に成った時には、オリーブオイル、他の記入は無し。何となく、購買者に遠慮しているのか、「苛性ソーダ」の名前が無くなった。オリーブ石鹸は、香りも自然だし汚れも良く落ちるし、泡立ちも普通だし、気に入っている、泡が多いほど汚れが良く落ちるわけではない~~♪

 

日本の販売者が、供給地を求めて、努力したことには感謝しているが、石鹸に「苛性ソーダ」が、使われているのに記入しなくなったのは、何となく「苛性」という言葉を避けているようで、スッキリしない、縁の下の力持ちの苛性ソーダに成り代わって(笑い)~~♪

 

 

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